言葉と翻訳
みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第九回です。
私たちは以前、「思考と言語」の関係について考えました。
私たちは、言葉になる前の感覚や直感を持っています。しかし同時に、言葉や概念によって世界を理解し、思考していることも確認しました。
思考は言葉を生み出し、言葉は思考を形作る。
両者は互いに影響し合いながら発展しているのでした。
では、ここで新たな疑問が生まれます。
もし言葉が思考を形作るのだとしたら、異なる言語を話す人々は、異なる仕方で世界を見ているのでしょうか。
そして、もしそうだとしたら、翻訳はなぜ可能なのでしょうか。
翻訳とは、いったい何を行っているのでしょうか。
今回は、「言葉と翻訳」という問題について考えてみたいと思います。
異なる言語は異なる世界を作るのか
まずは簡単な例から考えてみましょう。
日本語の「すみません」は、英語にどう翻訳されるでしょうか。
この言葉は非常に幅広い場面で使われます。そのため英語に訳す際には、文脈に応じて表現を選ばなければなりません。
たとえば、
- I’m sorry.
- Excuse me.
- Thank you.
など、場面によってまったく異なる表現になります。
逆に、英語の I’m sorry. を日本語に訳す場合も同じです。
- すみません
- ごめんなさい
- 残念です
- お気の毒です
状況によって適切な訳語は変わります。
また、日本語では「兄」と「弟」を区別しますが、英語ではどちらも brother です。
反対に、英語では finger と toe を区別しますが、日本語ではどちらも「指」です。
こうした例を見ると、言語によって世界の整理の仕方が異なっていることがわかります。
以前見たように、言葉には世界を分類し整理する働きがあります。言語ごとに、世界の切り分け方は異なっているのです。
だとすれば、異なる言語は異なる分類の仕方を持ち、結果として異なる思考を生み出しているのではないでしょうか。
日本語を話す人と英語を話す人では、同じ現実を見ていても、その捉え方が少しずつ異なっているのかもしれません。
翻訳できない言葉
実際、私たちはしばしば「この言葉は翻訳できない」と言います。
たとえば、日本語の「木漏れ日」です。
英語では、
sunlight filtering through trees
のように説明的な表現になります。
現象そのものは英語話者であっても容易に理解できます。ただ、それを一語で呼ぶ習慣がないだけなのです。
「翻訳できない」というのは、多くの場合、「一語でぴったり対応する表現がない」という方が正確です。
説明を加えれば翻訳は可能です。しかし、その言葉が持つニュアンスや文化的背景まで完全に移し替えることは難しい場合があります。
文学作品や詩は、その意味を完全に他の言語に移し替えることのできない典型的な事例でしょう。
こうした例を見ると、言葉ごとに固有の意味世界があり、それは他の言語へ完全には移し替えられないように思えます。
もし言葉の意味が、それぞれの文化や歴史の中で形作られているのだとすれば、それは当然のことかもしれません。
その背後には、その社会が積み重ねてきた経験や価値観が存在しています。
それでも翻訳は成立している
しかし一方で、私たちは現実に翻訳を行っています。
知らない言語であっても、翻訳や通訳を通じて、意思の疎通を図ることができます。
もし異なる言語が全く異なる世界を表現するものだとしたら、翻訳は原理的に不可能なはずです。
ここで重要なのは、「翻訳とは何か」を考え直すことです。
私たちは翻訳を、ある言葉を別の言葉へ機械的に置き換える作業だと考えがちです。
しかし実際にはそうではありません。
翻訳者が行っているのは、単語の置き換えではなく、その言葉が果たしている役割や意味全体を、別の言語の中で再構成することです。
たとえば、小説の翻訳では、原文とまったく同じ言葉を再現することはできません。翻訳者の違いによって、さまざまな翻訳が生まれます。
それでも読者は、登場人物の感情や物語の流れを理解できます。
完全な一致はなくても、意味の共有は可能なのです。
翻訳されるのは言葉か、それとも経験か
ここでさらに考えてみましょう。
翻訳されているのは、本当に言葉そのものなのでしょうか。
たとえば「悲しい」という言葉があります。
日本語の「悲しい」と英語の sad は完全に同じ意味ではありません。細かなニュアンスには違いがあります。
しかし、大切な人を失ったときの苦しみや喪失感そのものは、多くの人が理解できます。
つまり私たちは、言葉だけを理解しているのではありません。
言葉の背後にある経験や状況を理解しているのです。
私たちは、言葉は違っても人間としての同じ基盤を持っています。
翻訳が成立するのは、異なる言語の話者がまったく別の世界に生きているからではなく、ある程度共通する経験世界を持っているからだと言えるかもしれません。
空を見上げれば空があります。
雨に打たれれば濡れます。
悲しみも喜びも、誰もが経験することです。
言葉の区切り方は異なっても、その背後にある世界には重なりがあるのです。
翻訳とはどのような行為か
私たちは、日本語で話すとき、日本語で作られた概念や表現を通じて現実を捉えています。言い換えれば、私たちの思考は日本語の枠組みによって制約されているということです。
同様に、英語で話すときには、英語の表現と概念が私たちの思考を制約します。
しかし、翻訳を行うときには、一方の言語の枠組みだけに留まることはできません。
翻訳する際は、まず自分が普段使っている言語の制約から一旦離れ、伝えたい内容を考え直した上で、それが翻訳する言語でどのように表現されるのか再構成しなくてはなりません。
その過程で、私たちの思考は二つの言語の間を行き来し、両者を比較しています。この比較を行う思考は、どちらの言語の制約からも外れた位置にあるはずです。
以前、私たちは「言語なしで物事を考えられるのか」という問いを検討しました。そのときの私たちの答えは、「ほとんどの人は何も考えられないだろう」というものでした。
しかし、翻訳を行っているとき、私たちはまさに言語の外に出た思考を実践しているのです。
このことが可能であるという事実は、私たちには言語に依存した思考とは別に、普遍的な思考能力があることを示唆しているのかもしれません。
完全な翻訳は可能か
私たちには、完全な翻訳は可能なのでしょうか。
おそらく、それは難しいでしょう。
どんな翻訳にも、多少の意味のずれは生じます。
言葉には、その言語特有の歴史や文化が染み込んでいるからです。
しかし、だからといって翻訳が不可能になるわけではありません。
むしろ翻訳とは、完全な一致を目指す作業ではなく、異なる世界の間に橋を架ける試みだと考えることができます。
完全には重ならないからこそ、翻訳には工夫が必要になります。
説明を加えたり、表現を変えたり、場合によっては複数の表現を組み合わせたりする。
翻訳者は、二つの言語の間にある距離を埋めようとしているのです。
では、その時、翻訳者は、二つの言語のどちらにも制約されない何かを直接、考えているのでしょうか。
あるいは、二つの言語を行き来しながら共通する意味を探しているのでしょうか。
翻訳という行為は、言語と思考の関係について改めて考えさせる興味深い例なのです。
自分の頭で考えるために
私たちは普段、自分の使っている言葉を当たり前のものだと思っています。
しかし、異なる言語を見てみると、その当たり前が決して普遍的なものではないことに気づきます。
自分が当然だと思っている表現は、本当に世界のあり方を正しく捉えているのでしょうか。
私たちが見ている世界のあり方は、唯一のものなのでしょうか。
別の言語を話す人は、同じ現実をどのように見ているのでしょうか。
そう問い始めたとき、私たちは自分の言葉の外側にある思考の可能性に気づき始めます。
翻訳について考えることは、単に外国語について考えることではありません。
それは、自分がどのような言葉によって世界を理解しているのかを問い直すことなのです。
言葉は私たちに世界を理解する力を与えます。
しかし同時に、その理解の仕方を方向づけもします。
だから哲学は、異なる言葉の間を行き来しながら、「言葉によって本当に伝わっているものは何なのか」を問い続けるのです。
それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。




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