マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』講談社選書メチエ (2018)
Markus Gabriel, Warum es die Welt nicht gibt, 2013
世界は存在しない?
世界はなぜ存在しないのか———
本書は、非常に逆説的な問いを立てている。
ここで言う「世界は存在しない」ということの意味は、世界という現実が存在しない、ということではない。もちろん、われわれが世界を知ることができないとか、世界を認識することができないという「不可知論」の意味でもない。それは、あくまで「すべてを包摂する唯一の世界は存在しない」ということを示している。
むしろ著者の考えは、「わたしたちは物および事実それ自体を認識することができる」という認識能力を素直に信頼した立場に立っている。ただし、その認識された物および事実は、さまざまな意味の世界に属しているという。そして、われわれが唯一、把握することができないものが、「すべてを包括する全体世界」ということになる。
われわれはそれぞれの意味の領域に応じた無数に「可能な世界」を生きている。
本書の結論を一言で要約しようとすればこのようなものになるだろう。
ただ、著者の言う無数に可能な世界というのは、「すべてを包摂する世界が存在する」という命題の反証として得られた結論であり、それが具体的にどのようなものかは本書では明示されていない。
新しい実在論
では、無数に可能な世界とは何か?
たとえば、多元的宇宙論の「並行世界」のようなものを想像すればいいのだろうか。しかし、著者の考えに沿って言えば、物理学が唱える多元的宇宙論の「並行世界」は、物理学主義の産物であって、物理学という意味の領域に現れた一つの現実に過ぎない。したがって、存在論的に解釈された多元的世界を考えなくてはいけない。
著者は「意味の場」の存在論を提唱している。この存在論では、「存在」を「何かが意味を持って現象するも」のとして捉え直す。対象が意味を持って現象するためには、意味の場と呼ぶべき対象領域が必要になる。意味が成立するためには場(context)が必要だからだ。この対象領域は相互に関連しつつ無限にあらわれる。
それは、さまざまな意味の場を包括して捉える統一的視点というものがないからだ。唯一の超越的観点というものがない以上、それは無限の可能性に開かれるものであり、世界の様相に多元的性格をもたらす。
著者は、われわれがすでに無限に数多くの可能性へ巻き込まれて生きているという。
わたしたち一人ひとりが自分自身に閉じ込められているわけではありません。ましてや自らの自己意識に閉じ込められているのではありません。わたしたちは、無限に多くの意味の場のなかをともに生きながら、そのつど改めて当の意味の場を理解できるものにしていくわけです。それ以上に何を求めるというのでしょうか。
pp.273-4
この無限の可能性に開かれて生きているということの意味が著者の言う多元的な世界ということなのだろう。それを本書では「新しい実在論(Neuer Realismus)」と名付けている。
存在論としての難題
「すべてを包摂する世界が存在する」のではなく、無数の可能性に開かれた存在の在り方を著者は「新しい存在論」として提唱した。
だが、「無数の世界」が、命題として真が証明されるものでもなく、事実として実証されるものでないとしたら、それは、どのようにして自らの正しさを主張するのだろうか。
カントの「物自体」をも否定した著者の徹底した多元主義は、「存在」を「意味」に置き換えただけというようにも見える。
著者の掲げる新しい実在論は、二つのテーゼによって成り立つという。
第一に「わたしたちは物および事実それ自体を認識することができる」ということ。そして第二に「物および事実それ自体は唯一の対象領域にだけ属するわけではない」ということ。
p.311
物や事実は、客観的な唯一のものとしてではなく、多様な意味の領域の中に現れている。存在や事実はすべて「意味」として捉えられ、意味は「場」に応じた多様なあらわれ方をする。意味として現れた存在や事実以外のものを実在として認めないため、世界は多様になる。
その意味で、すべてを包摂する世界はない。これを「世界は存在しない」という命題として掲げている。
この存在論(Ontology)は非常に魅力的だ。しかし、存在論は自らの正しさをどのように証明するのだろうか?存在論は、「存在するものとは何か」という認識以前のアプリオリな実在を問うものだからだ。
存在論はその正しさを論証して自ら示すという点において非常な難題を抱えている。本書でもそこが一番の問題になっているだろう。
理論的課題:概念の論理的関係性の不明瞭さ
著者の議論の出発点にあるのは、「人間の認識とは無関係に現実は存在する」という実在論的立場だろう。しかし彼は、「単一の物理的世界」が存在するという素朴実在論をそのまま受け入れるのではなく、多数の「意味の場」が並立する多元的実在論を提唱する。
だが、ここには一つの根本的な疑問が残る。そもそも「意味の場」という概念自体、人間の認識や理解の形式を介さずに成立しうるのだろうか。もし意味の場が、主体による解釈や認識を前提としているのであれば、「認識とは独立した実在」を主張しながら、同時に認識に依存した構造を導入していることになる。
その結果、著者の議論は、カントの「物自体と超越的な認識主体」という構図を乗り越えているとは言いがたいように見える。たしかに彼は、「世界そのもの」を否定しつつ、多様な存在領域を認めることで、古典的な形而上学を批判している。しかしその一方で、「実在」と、それを開示・把握する「意味の場」との関係は十分に説明されていない。
結局のところ、「主体から独立した実在」が、なぜ、どのようにして「意味」を伴う形で現れるのか、その論理的構造は依然として曖昧なままである。そうだとすれば、彼の議論は、「認識不可能な物自体」と、それを構成・把握する主体という、カント以来の構図から完全には離脱できていないのではないか。
概念同士の論理的関係がなお不明瞭であること──とりわけ、「実在」と「意味の場」がどのような関係にあるのかが十分に説明されていない点は、本書の大きな課題である。というのも、この関係性こそが、本書の中心概念である「新実在論」が本当に成立しうるかどうかを左右する要となっているからだ。そのため、両者を結びつける論理構造にどこまで明晰な説明を与えられるかが、今後の議論における最大の焦点になるだろう。
総評
本書は、「新実在論」という体系化された理論を完成形として提示するというよりも、まずその基本的な方向性を提示し、問題提起を行うことに重点が置かれている。したがって、議論全体としては、なお構想の入口にある段階だと言えるだろう。論理構造には粗削りな部分も多く、概念同士の関係が十分に整理されていないため、読者が理解に戸惑う箇所も少なくない。
しかしその一方で、本書の意義は決して小さくない。マルティン・ハイデガー以降、哲学において相対的に後景化していた「存在そのもの」を、再び正面から問い直そうとした点には、大きな思想的価値がある。実在論と相対主義、科学主義と形而上学という対立が行き詰まりつつある現代において、本書は存在論を再活性化する契機の一つとして読むことができるだろう。



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