井伏鱒二 短編作品

 飄々として、軽妙な人物像。淡々として、起伏のない情景描写。
 何が面白いのか、と言われれば、説明に困るような作品。。。それが井伏鱒二の短編に感じることだ。
 しかし、文章は平易かつ的確で、目の前にありありと情景が浮かんでくる。この描写の巧みさが、この作家の魅力なのだろう。

 井伏鱒二は、早稲田文学部に入る前は、画家を志望していた。中学卒業後の19才の時には、写生旅行も行っている。こうした旅先の情景を旅人特有の一歩引いた視点から、描写していく。そうした絵画的な雰囲気が初期の作品群には感じられる。

 対象に没入し過ぎず、かといって、傍観者として徹底するのでもない。つかず離れずの雰囲気だ。

 淡々とした話が多いが、人物造形は巧みで、それぞれに面白味がある。

『朽助のいる谷間』

 朽助はダムに沈む予定になっている谷間に偏屈にも住み続けている老人。若い頃にはハワイに出稼ぎ労働に行っていた。「私」は幼い頃、彼にあやされて育った。英語の手ほどきも彼から受けている。
 彼の身を案じた孫娘が、朽助のもとに移り住んでくる。彼女は日本人とアメリカ人の間の子で見た目は全く西洋人だ。彼女に頼まれて、「私」は朽助の移住を手伝うことになる。
 「故郷」「山間部」「洋行帰り」「英語」「異人」「混血の少女」と文学志望の「私」。。。昭和初期の文学青年が抱く西欧文化への憧れと日本の原風景への郷愁。そういった要素が奇妙に、いささか不釣り合いに、入り混じった作品。

『岬の風景』

 ある港町での淡い恋愛模様。卒業後、職もなく過ごしていた「私」は、編纂人の仕事を見つけて、細い二つの岬に抱かれた港町へと移り住んできた。仕事の傍ら、女学校出の少女に英語を教えることになった。二人は自然と互いに恋愛感情を抱くが、彼女の付き人の由蔵と彼の下宿先の賄娘の視線が、彼らの恋路を躊躇わせている。
 ある午後の夕立の後、虹のかかった夕暮れ、「私」は少女と賄の娘が、鉢合わせて互いに言葉をかけている姿を見つける。
 その光景の美しさに感動を覚えた私は、自らの汚さを実感する。恋路を躊躇わせていたのは、自分自身だったのだろう。

『掛持ち』

 井伏作品の短編には、旅先の風情を描くものが多い。この作品も甲府の温泉街を舞台としている。

 温泉宿で番頭を務める喜十というある男の物語。
 昭和15年(1940)の作品だが、作中の温泉宿では、江戸の頃の湯屋の古い風習の名残りが窺われる。すでに「待合」の制度は禁止されているが、この温泉宿では、「連れ込み」としての性格は色濃く残している。これが法的、倫理的にも非常に曖昧で、宿場の人々にとっても、許されているというものもいれば、許されていないというものもいる有り様。
 この甲府の温泉宿では、昇仙峡見物の団体客や湯治客を主に相手にしているが、連れ込み本位の客も多い。喜十はこの宿で、番頭を務めているが、この宿の三人いる番頭の中で一番うだつが上がらない。番頭とはいっても、仕事ぶりも身なりも「三助」といった方がよい。
 夏場と真冬の閑散期には、暇を与えられてしまう。身寄りのない喜十は、この間、伊豆の温泉宿で番頭を務める。要は、甲府と伊豆の二つの宿で、番頭を掛け持っているのだ。
 この喜十という人物、甲府ではうだつの上がらない三助風情だが、伊豆では誰もが一目置く紳士としてふるまっている。
 この二重生活のつじつまを合わせる姿が面白い。

『シグレ島叙景』

 ある沖合の島でウサギを飼って生計を立てている伊作とオタツ。二人とも50前後で、年よりもずっと老けて見える。そして何よりも奇妙なのは、彼らが港に打ち捨てられた廃船をアパート代わりに住んでいることだ。
 二人は夫婦ではない。同じ船に住んでいるが部屋は別々。普段、互いに言い争いばかりしている。喧嘩と罵り合いばかりだが、二人のやり取りは軽妙で、夫婦漫才のようだ。
 そして、その廃船に移り住んで、二人の様子を淡々と眺めながら、時には二人の仲裁役などをして、暮らしている「私」。この作品で最も奇妙なのは、実はこの「私」の存在の方だ。世間から浮いた観察者としての「私」。お前こそいったい誰なんだ?
 『掛け持ち』と同じく、井伏作品特有の軽妙な人物描写が非常に生きた作品。

新潮文庫『山椒魚』所収

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