NO IMAGE

哲学する(知を愛する)ことの意味とは? – プラトン『恋がたき』

 『恋がたき』または『恋人たち』。
 副題は、「哲学について」。トラシュロスのまとめた36篇の中のひとつだが、この1篇もまた、プラトンの偽作として疑われている。

 現代の計量文献学による研究では、この作品は、紀元前4世紀後半頃に書かれたもので、統計的には、クセノフォンの作品の方に有意な類似性が認められているようだ。

 プラトンの対話篇は、対話の相手の名前が作品の題となるものがほとんどだが、この作品は、無名の恋敵同士の若者二人が対話の相手となっている。そのため、その二人の関係性を表す『恋がたき』が題とされている。

 ソクラテスの対話は、この無名の若者二人との間で行われる。アナクサゴラスの天文学について論じている同じ少年を愛している二人 ――― 一人は文芸(ムシケーmousike)に打ち込み、もう一人は体育(gymnastike)に打ち込んできた若者 ――― を相手にソクラテスは、哲学を学ぶということはどういうことかを問う。

 二人のうち、文芸を好む若者は、哲学とは、多くを学ぶことと答える。それに対しソクラテスは哲学は博識(polymathia)と同じものかと問いかける。その若者は、それを否定しつつ、次のように答える。

「…専門家によって語られることに、その場にいる者の中でも段違いによくついていくことができ、さらには自らの見解を披歴して寄与することもできるので、その結果、諸々の技術に関して述べられ実践される事柄について、いつでも、その場に居合わせている者の中で最も知的に洗練され賢いように見えるのです」

 専門家となることではなく、多くの学問に適度に触れ、最も洗練された知識を披露することのできるものが哲学者と呼ぶにふさわしい者だと言う。この若者の答えは、今で言う専門家(specialist)ではなく、指導者(generalist)としての知性を哲学として捉えていることが窺える。

 このような考え方は、実は、現代にこそよくあてはまるものだ。
 現代では、学ぶということは、おおよそ二つの考え方に大別できる。専門的な知識を身に付け、特定の分野での有用な人材になるべきであるという考え方と、幅広い知識を学び、広い知見に基づいた優れた見解を示すことができるようにすべきという考え方があり、指導者としては後者の知性が重要とされる。

 現代でも非常によく対比される知性の型だろう。今でも我々は、普段、専門家の意見を尊重するが、最終的な決断は、幅広い知見を持った指導者に任せようとする。ソクラテスの問いに答えたこの若者も、幅広い知識から優れた知見を引き出すことのできるものが、哲学者としてふさわしいものとしている。
 しかし、ソクラテスは、このような考え方を浅薄なものとして退ける。

 ソクラテスの答えは、「哲学をする」ということが、どのようなものではないか、という否定の形で与えられる。

・博学的な知識を得るものではない
・特定の分野の専門的な知識に優れることではない
・専門家の知識の二番手に甘んずるべきものでもない

 では、ソクラテスにとっての「哲学」とは何なのだろうか。
 ソクラテスの次の言葉がそれを示唆している。

「してみると、どうやら、デルポイの神殿の内に刻まれた言葉は、そのこと、つまり節度と正義に努めよ、と命じているようだ」

 ソクラテスにとっては、「哲学をする」ということは、何よりも先ず、己自身を知ることだった。自分自身を知ることは、節度を持つということであり、節度を持つ人こそが、善悪を見分けることができ、正義にかなうのだとしている。
 現代の感覚からすると、ソクラテスの考え方の方が奇妙なものに見えてしまう。

 この若者の「知識」に対する考え方は、学問が制度として確立して以降に出てくるものだ。プラトン以降、アカデメイアが設立され、学問は算術、幾何学、天文学など専門分野ごとに整備される。そして、さまざまな分野に精通したのち、指導者としてふさわしい「哲学」、特に形而上的な思弁を学ぶべきだとされた。
 このような考え方は、現代にもそのまま通用する。それは、学問が制度として成立した以降の世界を我々が生きているからだ。

 その意味で、この若者の考えは「ポスト・プラトン」の知識のあり方を反映していて、『恋がたき』がプラトンの偽作とされる最も重要な根拠となっているのだ。

 ソクラテスの「哲学」観は、学問が制度化される以前のものを反映している。哲学が、ある種、宗教的な自己鍛錬を目指すものであり、自己を発見するための手段となっている。
 自分自身を知ることが節度だと、ソクラテスが言っているのは、そのような意味でだ。

 「学ぶ」ということは、どこか自己修練的な側面がある。今では、「学ぶ」ということから、そのような観点はすっかり失われている。
 知識偏重で、人間性を全く欠いた小賢しい意見を披歴して廻る専門家や指導者がいかに多いことか。
 偽作として見られている作品だが、この作品が現代に問いかけている意味は非常に大きい。