夕日と水面

理想と被害妄想の狭間 – ルソー『孤独な散歩者の夢想』(1782)

夕日と水面

ルソー『孤独な散歩者の夢想』(1782)

 ルソーの遺作となった作品。
 夢想とある通り現実と妄想の間を行き来するような内容で終始、ルソーの独白が続いていく。

 ルソーは、一般的には社会契約論を唱えた社会思想家として知られているが、社会思想や哲学の他に、博物学、音楽理論、芸術論などの著作もあり、作家として小説も書いていて、非常に多岐にわたる活躍を見せている。まるでミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチのようなルネサンス期の万能人のような人物だ。

 だが、晩年は被害妄想に襲われ、正常な思考が妨げられていく。『孤独な散歩者の夢想』は、ルソーの被害妄想が悪化する中で心の平穏を取り戻そうとして執筆されたものだ。

内面の記録としての作品

 本書は、絶望的な孤独の告白と自分を取り囲む人々に対する怨嗟から始まる。晩年の自分の孤独は、すべて回りの友人たちによる陰謀だと述べる。すべてが仕組まれた罠だったという。
 こうしたルソーの主張がどこまで正しいものかは分からない。被害妄想が悪化する中での彼の主張には、妄想と現実が入り乱れている。陰謀論に固執し、自らを孤独に追いやっていく精神の悲劇が感じられる。

 ルソーは、彼らを恨みながらも、世俗的な関心をすべて断ち切ることで、ついに精神の平和を手に入れたと綴る。もう誰からも自らの精神の安定を脅かされることはない。都会から離れ静かな暮らしの中で自己の内面に沈潜し、自然と向き合うことが、今の彼にとっての幸福なのだ。この奇妙な心理状態を記録として残すために本書を執筆したのだと彼は述べている。
 ルソーにとってこの夢想は、まさに自己自身との対話であり、自己の内面と向き合ったその記録だ。その意味で、内面の心理描写としての真実がそこにはある。

 ルソーの主張が正しいものかどうか、ルソーの告白が真実であるかどうかは、考えても仕方のないものだ。また、ルソーの思索に哲学的な意味を見出そうとしても無駄なことのように思う。
 本書は哲学書というよりも小説として読む方が良いと思う。まるで太宰の小説を読んでいるかのようだ。すぐれた内面描写であり、一級の心理小説だ。

 読者はルソーが自らの内面と向き合う姿にだけ真実を見出せればそれでよいのだと思う。誰もが一度は自らの内面と真剣に向き合う時があるだろう。そこには、確かに個人としての真実があるのだ。このことが、ルソーの妄想に近い夢想を誰にとっても意味のある普遍的なものにさせているのだと思う。

ルソーが最後に見出したもの

 ルソーは、この孤独な散歩の中での夢想の先に何を見つけたのだろうか。
 社交を忌避し、人との交際を退けたルソーも最後の第9の散歩では、子供の笑顔を見ることに「無私の喜び」を見出すようになる。第10の散歩は未完のため、実質的に最後の章である第9の散歩では、幸福の意味を問うことから始め、その答えをただ人の満足げな笑顔を見ることに見出している。
 ルソーは何度も無私の善意はありえるのかという問題に拘泥している。他人に対する善意や親切も、他人から感謝や歓心を買うためのものであれば、それは利己的な自己愛ではないのか。たとえば、彼は、感謝のしるしとして幾ばくかの金銭を渡すことにさえ、羞恥心を覚え、自己嫌悪に陥っている。こうした善意の問題に純粋に拘泥していた。だが、人の満足げな笑顔を見ることの心の平安を見つけた彼は、それをただ素直に受け止めればよいということに気がついていく。

 極度の被害妄想の中で他者を告発し、自己弁明のために書いた『対話』の出版が失敗した後、社交界での自分の毀誉褒貶に拘るような、そうしたことに虚しさを感じたルソーは、一種の諦念のような心境の中でこの『夢想』を書き始めた。孤独の中で自己に耽溺し、自然の中に安らぎを覚えた彼も、最後には、幸福の意味を人とのつながりの中に見出している。

 晩年のルソーはやはり狂人だったのかもしれない。しかし、倫理や善ということに拘りすぎたが故の純粋な狂気には、人を引き付ける魅力がある。ルソーの文章には、孤独の中であえぐ人間を引き込む力があるように感じる。少なくとも、人付き合いが苦手で下手糞な私には、彼の孤独の中の夢想は、少なからぬ癒しになるものだった。