プラトン『リュシス』(B.C. 4c)

紐帯の原理としての友愛(philia)

 副題は、「友愛について」。
 ここで論じられている友愛(ピリア philia)は、現代の友情(friendship)より遥かに広い概念だ。
 古代ギリシアにおける「友愛」は、感情的な結びつきを表すものではなく、人と人との間を結びつける紐帯となる概念で、そこからさらに類推的発展をして、物質同士の結びつきの要因ともされている。

 ソクラテスは、この作品の中でエンペドクレスに言及しているが、彼は四元素説を唱えた自然哲学者として知られている。
 エンペドクレスによれば、世界は火、水、土、空気の四元素から成り立っていて、それらは友愛(philia)によって結びつき、憎しみ(ネイコス neikos)によって分離することで、自然界の変化が説明できるとした。

 ここでのソクラテスの対話は、友情という感情的な結びつきだけに収まるものではなく、人はなぜ集団を形成し、社会の中で生きているのか、という広い射程を持った議論だということを念頭に置いて読まなくてはならないだろう。

友愛の成立する条件とは?

 『リュシス』はプラトンの初期作品に推定される作品で、初期作品に共通してみられるアポリアで終わるという構成をとる。

 物語は、ソクラテスが、リュシスに恋をするヒッポタレスに請われて、小規模体育場(パイラストラ palaestra)で、リュシスを相手に議論をすることから始まる。

 リュシスとの対話の中で、ある関係性が「友愛」と呼ばれるのはどのような条件の下であるかをソクラテスは探究していく。

 ソクラテスの議論は非常に入り組んでいるが、議論の前提として、愛する側(主体)と愛される側(客体)の峻別があることにまず気を付けなければならない。そして、「友愛」は人と人を結びつける紐帯として機能していなければならない。つまり、一方的な関係性にはなり得ない。このような前提の下で、愛する側、愛される側双方にとって、友愛という関係が成立する状況を考察していく。

 だが、ソクラテスが対話の中で明らかにしていくことは、このような前提条件をすべて満たすのような関係性が見当たらないということだ。
 愛する側が愛するだけでは、当然、「友愛」は成立しない。また、愛される側が愛されるだけでも、それは友愛ではない。一方的な関係性からは、友愛の持つ紐帯としての意味が失われるからだ。

 では、互いが愛し合う状況ではどうか。これもソクラテスの議論では友愛と呼べるものではないことになる。なぜなら、友愛は単なる感情的な結びつきではなく、物質さえ含んだ広くさまざまなものを結びつける紐帯としての原理だからだ。つまり、善なる関係が友愛となるのだら、関係性が善とならない限り、互いに求め合っていたとしてもそれは友愛とは呼べないものになる。

 人が友愛を求めるのは善を要求するからだ。
 だが、ここで、奇妙な議論が一つ出てくる。
 善なる人は、善であるがゆえに欠けたものがなく、自足していて、友愛を必要としないということだ。

 似たもの同士、あるいは、反対のもの同士が互いを求め合い成立する関係性も善を要求するものではないため、ここにも友愛は成立しないことになる。

 ここまで議論を進めた段階で、ソクラテスは友愛(philia)を哲学(philosophia)、つまり知を愛することに例える。

「私たちは、すでに知のある者たちが―――人間たちであれ神々であれ―――、知を愛し求める「哲学する」ことはもはやなく、そして無知であるために悪くなってしまった人たちもまた知を愛し求めることはない、というもの悪くて無教養な人は誰も知を愛し求めることはしないから、と主張できるのだ。したがって、残るのは、無知というこの悪をもってはいるが、まだその悪によって無知で無教養にはなりきっておらず、自分たちの知らないことは知らないとまだ考えている人たちである。」

 そして、この例えから、次のような結論を導き出す。

「リュシスとメネクセノスよ、私たちは何にもまして、友とは何であり、何でないかを見つけたのだ。すなわち、私たちはそれを次のように主張する。魂についてであれ、身体についてであれ、あらゆることについて、悪くも善くもないものが、悪がそなわるがゆえに善の友である、と」

 ソクラテスにとって友愛とは、哲学と同じく、自らが無知であるがゆえに知を求めるように、自らに悪が備わっているからこそ、友(philos)を求めるものだということになる。

第一の根源的な存在としての友 – プラトン的イデア論

 ここで、議論はいったん終結するのだが、ソクラテスは突然、今までの議論を否定し、先の結論が間違ったものであったことに気が付いたと言い出す。

 ここからの議論は急に性質の異なるものになる。
 一切の始まりであり、他に遡ることのできない「全てのものの第一の友」と呼ばれるものがあるのではないか、と唐突にソクラテスは問いかける。そして、それ以外の友と呼ばれていたのものは、何かの影像のようなもので、我々を欺いた偽りの存在ではないかという。
 友は何かのために友であるのではなく、友であるがゆえに友であるのだ。
 同語反復(tautology)のような議論だが、これは、後のイデア論の原型となる発想だ。

 だが、第一の根源的な真の友が存在し、それ以外は偽りのものとすると、友をめぐるさまざまな関係性についての今までの議論は、偽りの問題を解いていたことになる。ただ人は、第一の根源的な友さえ求めればよいのだから。ここでソクラテスの議論は、欲望すなわち友愛になってしまう。
 ここで、議論はアポリアへ行き着いてしまう。

 ソクラテスは、このような偽りの幻影にすぎない友に騙されるべきではない、と若者たちに忠告してこの対話は終わりを迎える。

 この最後の唐突なソクラテスの議論は非常に奇異の感を我々読者に与える。議論に連続性が見られないのだ。
 この最後の議論は、ソクラテスの思想を記述したものではなく、プラトンが自らの思想を表すために書き加えたものなのではないだろうか。
 ここで問題になるのは、ソクラテスがあくまで人と人、あるいは人と自然の関係性の中に友愛の存在を求めようとしていたのに対し、最後のプラトンの考えと思われる議論では、現実を超えた形而上的な世界に真な存在としての友愛を求めようとした点だ。
 全く次元の異なる議論を最後の段階で、混同しながら展開しているのだ。本書の議論の読みにくさはここに由来している。つまり、これは本質的な意味でのアポリアではない、ということだ。

 プラトンの思想とソクラテスの思想が交雑する点に気を付けて読まなければならない作品だろう。

 この作品の主題である「友愛」についての議論は、最後の「第一の友」の議論を除いた、前半から中盤にかけての対話の方が、汲み取れる意義はより深いものだと思う。
 人を愛する、すなわち、人を求めるというのは、本質的に自己の欲望であり、独善的なものだ。それが「友愛」という善の関係を体現できるようになるには、いかなる条件が必要であるか。これは、現代においても決して色褪せることない普遍的な問いだろう。

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