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【自分の頭で考える哲学】第20回 ― 倫理と実存

哲学談戯

倫理と実存

みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第二十回です。

これまで私たちは、「存在とは何か」「私とは何か」「私たちは何を共有しているのか」といった問いについて考えてきました。

そこで見えてきたのは、私たちはそれぞれ異なる主観を持ちながらも、完全に孤立しているわけではないということです。
私たちは共通する世界の中で生き、論理を共有し、言葉や概念を通じて、互いの経験について語り合い、理解することができます。

つまり、私たちはそれぞれ個別の存在でありながら、同時に何かを共有しているのです。

では、こうした考察から、倫理について何が言えるのでしょうか。

私たちの個別の主観や価値判断を超えて、「何が正しいのか」という問いを、私たち全員に関わる共通の問題として問うことは可能なのでしょうか。

今回は、これまで考えてきた哲学的な知見を踏まえて、私たちはどのような形の倫理を語ることができるのか、考えてみましょう。

倫理の歴史性

まず、私たちが暮らす社会に目を向けてみましょう。

そこには、倫理や価値観が一様ではないという事実があります。

ある社会では正しいとされていることが、別の社会では受け入れられないことがあります。また、現在では当然だと思われている規範が、過去には存在しなかったということもあります。

たとえば、家族のあり方、男女の役割、働き方、政治への参加、人間関係のあり方などについて、「当然」とされる考え方は、時代によって大きく変化してきました。

これは、倫理が単なる個人の判断ではなく、社会の歴史や文化と深く結びついていることを示しています。

私たちは、生まれた瞬間から、すでにある社会の中に存在しています。

何を善いこととするのか。
何をしてはいけないと考えるのか。
何を恥ずかしいこととするのか。
何を尊敬し、何を尊重するのか。

こうした判断の多くは、私たちが生まれる前から、社会の中にすでに存在しています。

その意味で、倫理や規範は歴史性を有しています。

私たちは自分自身で何かの価値判断をしているつもりでも、実際には、自分が生きている時代や社会から大きな影響と制約を受けています。

その意味で、「歴史性」は私たちの価値判断の前提をなしています。

歴史の中で変遷する倫理観

しかし、ここで重要な問題が生まれます。

倫理が歴史や文化によって形成されているのなら、倫理はすべて相対的なのでしょうか。

つまり、
「この社会では、これが正しい」
「別の社会では、別のことが正しい」
というだけで、そこに「どちらが正しいのか」という問いを立てることはできないのでしょうか。

しかし、歴史を振り返ると、私たちの価値観は決して孤立し、固定されたものではありませんでした。

異なる社会や文化の価値観が出会うことで、互いに影響を与え、それまで当然とされていた規範が見直されることがあります。そうした過程を通じて、倫理のあり方は変化してきました。

たとえば、かつては奴隷の所有が権利として認められていた社会がいくつもありました。また、ある社会では長い間、特定の集団を差別することが当然とされていたこともあります。

では、そのとき、
「昔からそうだった」
「社会全体がそう考えていた」
という事実だけで、その規範は正しいと言えるでしょうか。

おそらく、そう簡単には言えません。

なぜなら、私たちは、社会の中ですでに受け入れられている規範そのものを問い直すことができるからです。

「なぜ、それが正しいのか」
「なぜ、そのような扱いをすることが許されるのか」
「別の立場にいる人から見ても、それは正当なのか」

このような問いを立てることで、私たちは、自分が生きている社会の価値観をいったん距離を置いて考えることができます。

そして実際に、倫理や価値規範は歴史の中で変化してきたのです。

ここに、哲学的に倫理を考えることの意味があります。

自分が当然だと思っている規範そのものを問い直すことです。

そのとき、どの価値観がより正しいと言えるのかを考えるためには、自らが拠って立つ歴史性をいったん脱し、俯瞰的に見る視点が求められます。

では、そのような視点は、どこから得ることができるのでしょうか。

普遍的な倫理は、どこから始められるのか

倫理を俯瞰的に考えるためには、人間に普遍的に共通する条件から考えてみる必要があります。

もし、人間に普遍的に共通する存在条件から規範を導くことができるなら、特定の時代や文化を超えた倫理を考えることも可能になるはずです。

つまり、個々の倫理が、それぞれの社会における歴史的な人間像に基づいているのだとすれば、歴史や文化の違いを超えた倫理を考えるためには、そうした違いに先立つ、人間に普遍的に共通する存在の条件を捉える必要があります。

言い換えれば、特定の時代や文化に固有の人間像を超えて、人間に普遍的に共通する条件から、人間とはどのような存在なのかを抽象化して捉えることが求められるということです。

では、そのような普遍的な条件とは何でしょうか。

たとえば、ある一人の人間について考えてみましょう。

その人は、日本人であり、ある年齢で、ある職業に就き、特定の友人関係や家族関係を持ち、これまでにさまざまな経験をしてきた人です。

しかし、こうした属性や経歴をいくら並べても、その人が「その人である」ということを、完全に捉えることはできません。

国籍や年齢、職業、家族関係、過去の経験などは、その人について説明する重要な情報です。

しかし、それらの説明はすべて、その人がすでに存在していることを前提としています。

そこで、こうした個別の属性や歴史的背景をいったん離れ、それらに先立つ、より根本的な存在の条件まで遡って考えてみます。

人間は、そもそもどのような存在として生きているのでしょうか。

人間は、言葉で説明されるものとしてそこに存在しているわけではありません。

私たちは、言葉で捉えられる前に、自分が存在していることを意識し、自分がどのように生きるのかを考え、選択し、その結果を引き受けながら生きています。

ここで問題となるのが、「実存」という概念です。

実存とは、代わりのきかない存在であること

ここでは、「実存」という言葉を難しい哲学用語として捉えるのではなく、まずは「この私が、この私として存在しているということ」として考えてみましょう。

私とあなたは、同じ人間です。しかし、同一の存在ではありません。

私の代わりに、あなたが私の人生を生きることはできません。私が感じている痛みを、あなたが私に代わって感じることもできません。逆に、あなたが経験している苦しみを、私があなたとまったく同じ仕方で経験することもできません。

たとえ同じ出来事を経験したとしても、そこにいるのは、それぞれ固有の「私」です。

ここには、人間存在の重要な特徴があります。

私たちは一人ひとり、他の誰かと入れ替えることのできない、固有の存在として生きているのです。

私は私であり、あなたはあなたです。

そして、この存在の条件は、特定の文化や時代によって作られたものではありません。

日本人だからそうなのでも、現代人だからそうなのでもありません。古代に生きた人間も、現代に生きる人間も、異なる文化の中で生きる人間も、それぞれ自分自身の人生を生きています。

「私が他の誰とも入れ替えられない」ということは、私という存在の唯一性を意味します。

しかし、ここで重要なのは、私だけでなく「誰もが」他の誰とも入れ替えられない存在であるということです。

つまり、存在の唯一性は、私だけに当てはまる特殊な性質ではありません。

一人ひとりが唯一の存在であり、代替不可能であるということ自体が、すべての人間に共通する条件なのです。

ここに、全ての人間に共通する普遍性の一つの形を見出すことができます。

「誰もが固有の存在である」という点において、唯一性そのものが人間一般に共通する条件となっているのです。

そして、以前お話ししたように、実存とは、単に人間だけに共通する抽象的な性質を指すものではありません。実存とは、全てのものに等しく当てはまる、個別的で具体的な存在のあり方です。

だからこそ、実存を考えることは、個別性と普遍性を同時に考えることになります。

個々の存在は唯一であり、代替不可能です。しかし、「唯一であり、代替不可能な存在としてある」という条件そのものは、全てに共通しています。

存在の唯一性を認めることによってこそ、私たちは、人間一般、さらには存在そのものについて考えるための普遍的な条件を見出すことができるのです。

そして、この視点に立つならば、倫理についても新たな問いが生まれます。

一人ひとりが固有で唯一な代替不可能な存在であるということから、私たちはどのような倫理を導くことができるのでしょうか。

人間をカテゴリーだけで見ない

私たちは日常生活の中で、人間をさまざまなカテゴリーによって理解しています。

「男性だから、女性だから」
「学生だから、社会人だから」
「高齢者だから、若者だから」
「外国人だから」
「専門家だから」

こうした分類そのものが悪いわけではありません。社会生活を営むためには、人間をカテゴリーによって理解することも必要です。

しかし、カテゴリーはあくまでその人を理解するための一つの情報にすぎません。

たとえば、「高齢者」というカテゴリーから、その人がどのような人生を生きてきたのか、何を望んでいるのか、どのような経験をしてきたのかまで知ることはできません。同じカテゴリーに属していても、人間は一人ひとり異なります。

だからこそ、倫理において重要なのは、
「この人は何者なのか」という言葉によって説明される理解だけではなく、「この人は、この人自身として存在している」という事実を見ることです。

人間を概念として捉えることと、人間を固有の実存として捉えることは同じではありません。

概念は人間を理解するために必要な道具ですが、それによってその人自身の存在を完全に捉えることはできないのです。

人間を一つのカテゴリーに還元しない。

これは、実存を基盤とする倫理から導かれる重要な原則の一つです。

他者を完全に理解することはできない

実存的な観点からは、もう一つ重要な倫理的原則が導かれます。

それは、他者を尊重するとは、他者を完全に理解することではなく、自分とは異なる存在として理解しようとすることだ、ということです。

私たちは、他者の主観を完全に知ることはできません。
あなたの痛みを、私があなたとまったく同じように感じることはできないし、あなたの人生を私があなたに代わって生きることもできません。

つまり、他者理解には本質的な限界があります。

しかし、その限界があるからといって、他者を理解することが不可能になるわけではありません。

私たちは、物質的な世界や、言葉によって表される概念、論理的な構造などを、何らかの形で共有しています。だからこそ、自分とは異なる主観を持つ他者とも、互いの経験について語り、理解し、比較することができます。

もちろん、そこで得られる理解が完全なものになるわけではありません。

それでも私たちは、相手が自分とは異なる存在であることを認めながら、その人の経験を理解しようとすることができます。

むしろ、完全には理解できないからこそ、対話が必要なのです。

相手を「自分と同じ人間なのだから、きっと分かる」と考えるのではなく、
「自分とは異なる存在だからこそ、話を聞かなければならない」と考える。

他者との違いを認め、その違いを乗り越えようとして対話すること。

そこに、実存的な観点から見た他者理解の出発点があります。

「異なること」を前提に共に生きる

倫理について考えるとき、私たちはつい「正しい答え」を探そうとします。

もちろん、具体的な問題について、どのような行為が正当なのかを考えることは必要です。

しかし、その前に、もっと根本的な条件があります。

それは、私たちが互いに異なる実存として生きているということです。

私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きています。

私たちは、完全に同じ経験をすることはできません。

それでも、言葉を交わし、互いの経験について考え、理解しようとすることはできます。

そのためには、相手を自分の持っているカテゴリーだけで判断するのではなく、目の前にいる一人の人間を、固有の存在として捉えることが必要です。

ここに、普遍性についての一つの考え方があります。

普遍的な倫理とは、すべての人を同じ人間として捉えることではない。

それぞれが異なる存在であることを認め、その違いを持ったまま、誰もが代替不可能な実存として生きていることを等しく認めること。

そこから、普遍的な倫理を考え始めることができるのではないでしょうか。

自分の頭で考えるということ

私たちは社会の中で生きています。

だから、社会から完全に独立した価値観を持つことはできません。私たちの考え方は、歴史や文化、教育、家族、そしてこれまでの経験などから影響を受けています。

しかし、自分の価値観が社会から影響を受けているということは、その価値観が唯一の正しいものだということを意味しません。

むしろ、自分が当然だと思っている価値観が、どこから来たのかを問い直すことによって、初めて自分自身の判断が何を根拠としているのかを考えることができます。

「みんながそう言っているから」
「昔からそうだから」
「普通はそうするものだから」
という理由だけで判断するのではなく、

「なぜ、それが正しいのか」
と問い直す。

さらに、自分とは異なる実存として生きている他者の立場からも、その問いを考えてみる。

そうすることで私たちは、歴史や文化に根付いた社会固有の倫理観を理解すると同時に、個々の価値観や社会の規範を超えて、それらを批判的に問い直す視点を持つことができます。

個々の具体的な倫理は、歴史的に形成された価値観を出発点としながら、それを超えようとする普遍性との間の緊張関係の中で、絶えず問い直され、発展していくものなのです。

この意味で、倫理は、歴史性と普遍性との弁証法の中にあると言えるでしょう。

そして、個々の立場を超えた批判的思考は必ず自分自身にも突き返されてきます。

「なぜ、それを正しいと考えるのか」を自分自身に問い返すことによって、私たちは倫理を自分自身の問題として考え始めるのです。

では、改めて、普遍的な倫理とは何でしょうか。

それは、誰もが同じ価値観を持ち、同じ結論にたどり着くことではありません。

むしろ、
「異なる人間が、異なるままに共に生きるためには、何が必要なのか」
という問いを、存在の普遍的条件にまで立ち返って考えることです。

自分の価値観を絶対視せず、他者との違いを認めながら、それでも共に生きるための条件を考える。

そこに、「自分の頭で考える哲学」としての倫理の出発点があるのです。

それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。

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