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【自分の頭で考える哲学】第1回 ― 名前と存在

哲学談戯

名前と存在

みなさん、こんにちは。
今回から「自分の頭で考える哲学」を始めたいと思います。

第一回のテーマは「名前と存在」です。

少し難しそうなテーマですが、実は私たちが毎日当たり前に行っている認識の仕組みに関わる、とても身近な問題です。

私たちは普段、当たり前のように世界を見て、理解し、言葉を使っています。しかし、その当たり前のことを少し立ち止まって考えてみると、不思議なことに気づきます。

今日は、その不思議について考えてみましょう。

なぜ私たちは初めて見たものが分かるのか

まず、一つ質問をしてみましょう。あまり深読みせずに思ったままのことを答えてください。

これは何でしょうか。

みなさんは一目見ただけで、「鉛筆だ」と答えることができるでしょう。

しかし、よく考えてみてください。

この鉛筆そのものを、みなさんは見たことがないはずです。

これは私が使っている鉛筆です。同じ種類の鉛筆を見たことがある人がいるかもしれません。しかし、今ここにあるこの鉛筆そのものは、おそらく誰も見たことがありません。

同じ工場で作られた同じ製品であっても、この鉛筆そのものではありません。

それにもかかわらず、私たちは即座に「鉛筆」と認識します。

なぜでしょうか。

これは鉛筆の問題だけに限りません。

旅行先で初めて訪れた町を歩いているときのことを考えてみてください。

目の前に広がる景色は、すべて初めて見るものです。

それなのに、
「これは駅だ」
「これはホテルだ」
「これは公園だ」
と迷うことなく理解できます。

私たちは実際には初めて見るものを見ているにもかかわらず、その対象が何であるかを知っているのです。

私たちが知っているのは「存在」ではなく「名前」である

では、なぜそれが分かるのでしょうか。

答えは単純です。

私たちは、その存在そのものを知っているのではなく、その名前を知っているからです。

たとえば、私の手を見たとします。

これは私自身の手であって、あなたの手ではありません。
見た目は似ているかもしれませんが、DNAも違いますし、まったく別の存在です。

それでも私たちは「手だ」と答えます。

つまり私たちが認識しているのは、この手そのものではなく、「手」という概念なのです。

鉛筆も同じです。

今ここにある鉛筆は唯一無二の存在ですが、私たちはその個別の存在を把握しているのではなく、「鉛筆」という名前によって理解しています。

つまり私たちは、目の前にある個別の存在を、そのまま理解しているのではなく、名前を通して理解しているのです。

名前は存在を一般化する

名前には重要な働きがあります。

それは、異なるものの共通点を見つけ出し、一つの概念としてまとめることです。

世界には無数の鉛筆があります。

長さも違えば、色も違う。
素材も違えば、形も違う。

しかし私たちは、それらをまとめて「鉛筆」と呼びます。

世界には無数の手があります。

大人の手もあれば、子どもの手もある。
男性の手もあれば、女性の手もある。

それでも私たちは、それらをまとめて「手」と呼びます。

名前とは、多様な存在を一つの概念として整理するための道具なのです。
だからこそ、私たちは初めて見るものでも理解することができます。

哲学が区別してきた二つのもの

ここで重要なことがあります。

それは、名前と存在は同じものではないということです。

「鉛筆」という名前はたくさんの鉛筆に共通しています。

しかし、今ここにあるこの鉛筆は世界に一つしかありません。

同じ製品であっても、この鉛筆そのものではありません。

この鉛筆には、この鉛筆だけの歴史があります。

ここで哲学の言葉を導入してみましょう。

名前とは、共通の特徴をまとめた概念です。

鉛筆、手、人間、犬、机、木。

これらはすべて概念です。

一方で、実際に今ここに存在している個別のものは、それぞれ唯一無二の存在です。

この鉛筆、この手、この犬、この木。

それらは二度と同じものが現れない個別の存在です。

哲学では、このような個別的で唯一無二の存在を「実存」と呼ぶことがあります。

つまり、

  • 名前=概念(一般化されたもの)
  • 実存=今ここにある個別の存在

という違いです。

完全な複製人間は「あなた」なのか

実存という考え方をさらに分かりやすくするために、一つ思考実験をしてみましょう。

未来の科学技術によって、あなたの身体を構成する素粒子の配置を完全に解析できるようになったとします。

そして、その配置を一つ残らず再現し、あなたと寸分違わぬ複製を作ったとしましょう。

DNAも同じ。
脳の神経回路も同じ。
記憶も同じ。
外見も性格も同じ。

本人と区別できる要素は何一つありません。したがって、あなた以外のすべての人は、あなたと複製の区別をつけることができません。そして、科学的にも区別できる手段は、何一つありません。

そこで、その複製は、言います。自分こそが本物のあなただと。

では、その複製は本当にあなたでしょうか。

おそらく多くの人は「違う」と感じるはずです。

どれほど完全に再現されていても、それはあなたの複製であって、あなた自身ではありません。
なぜなら、存在としては別だからです。

あなたはあなた自身であり、他の何ものとも取り替えることができません。

ここに実存の特徴があります。

実存は、どれほど似たものがあっても置き換えることができません。

あなたはあなたでしかなく、他の何ものでもないのです。

言葉は世界を一般化する

私たちは世界を理解するとき、絶えず名前を使っています。

名前の分からないものに出会ったときでさえ、
「あれ」
「これ」
「何か」
といった言葉を用いて理解しようとします。

つまり言葉の働きとは、個別の存在を一般化することです。

それぞれの存在から共通点を抽出し、分類し、名前を付ける。

そうすることで、私たちは世界を理解し、人と共有できるようになります。

「鉛筆」という言葉がなければ、他人と鉛筆について会話することはできません。

言葉は人間社会を成立させるために不可欠です。

しかし、その便利さには代償もあります。

言葉は実存を隠してしまう

言葉は共通理解を可能にする一方で、個別の存在を見えにくくしてしまいます。

「人間」という言葉を使った瞬間、一人ひとりの具体的な人生は見えなくなります。
「若者」という言葉を使った瞬間、無数の異なる個人が一括りにされます。
「国民」「労働者」「消費者」「高齢者」といった言葉も同じです。

それらは便利な概念ですが、実際には存在しません。

実際に存在しているのは、今ここにいる一人ひとりの具体的な人間です。

ところが私たちは、いつの間にか言葉のほうを見て、存在そのものを見失ってしまいます。

類と実存のあいだで生きる私たち

もちろん、私たちは名前なしには生きられません。

世界を理解するためには概念が必要です。

しかし同時に、目の前にある存在は、名前だけでは捉えきれないものでもあります。

私たちの認識は、
「実存を知覚すること」と「概念として理解すること」

この二つによって成り立っています。

どちらも人間にとって必要なのです。

重要なのは、その違いを意識することです。

世界はすべて唯一無二である

今、身近にあるものを一つ手に取ってみてください。
ペンでも、本でも、コーヒーカップでも構いません。

それは何でしょうか。

もちろん名前を付ければ、ペンであり、本であり、コーヒーカップです。

しかし、その名前はその物のすべてではありません。

その物は、それ自身として世界にただ一つしか存在しません。

その場所にあり、その時間を経てきた、そのものだけの歴史を持っています。

人も同じです。

あなたという存在は、あなた以外の何ものでもありません。
誰とも取り替えることができません。

私たちは普段、名前を通して世界を見ています。

しかし、その名前の向こうには、言葉では言い尽くせない一つひとつの存在があります。

そう考えてみると、身の回りのものも、人も、そして自分自身も、少し違って見えてくるのではないでしょうか。

哲学とは、その忘れられた存在にもう一度目を向ける試みだと言えるかもしれません。

世界は概念でできているのではありません。
世界は、唯一無二の存在によってできているのです。

それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。

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