意識、自我、精神、顔

意識という科学では説明できないもの – マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』(2015)

マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』

Markus Gabriel, Ich ist nicht Gehirn: Philosophie des Geistes für das 21. Jahrhundert, 2015
意識と脳の狭間

 意識のハードプロブレム(Hard problem of consciousness)として知られる哲学、脳科学上の難問がある。オーストラリアの哲学者デイヴィット・チャーマーズが提唱した概念で、意識の存在を考える上で避けて通れない問題となっている。

 意識の働きは、脳の機能とは全く異なる原理に従っているのではないか、そのような疑いは古くから根強く存在する。
 脳は物理的な存在であり、脳の働きは物理的な振る舞いとして記述できる。だが、脳内の血流や神経細胞の電気的、化学的な反応をどれほど精密に記述したとしても、それは意識を説明したことになるのだろうか。脳の機能を記述することは、意識という主観的な現象や体験を説明しているのではなく、あくまでそれと関連した、あるいは、並行的に振る舞っている物理現象(脳の働き)を説明しているだけだ。意識の存在はあくまで私的なものだ。したがって、意識という現象は、その内面からしか捉えることはできない。私的な意識という現象と、脳の機能という物理的な現象の間には、大きな隔たりがある。この隔たりをチャーマーズは、意識のハードプロブレムと呼んだ。

 意識の働きを解明しようとする脳科学には、一つの前提が存在する。意識の存在やその振る舞いは、脳の物理的な働きの随伴現象として生じる、というものだ。
 脳の働きと意識の働きは、相互に関連したものであることは間違いないが、意識の働きをすべて脳の物理的な振る舞いに還元して説明することができるのだろうか。意識の働きが、すべて、ニューロンにおける電気刺激と神経伝達物質の結果として現れるなら、意識の主体性はどこから現れるのだろうか?脳の働きが先か、意識が先か?いずれは脳科学が、この問題も解決するのだろうか?それともやはり、意識の働きには、脳の働きとは別の説明原理が必要とされるのだろうか。。。

意識の主体性と自由意思

 マルクス・ガブリエルもまた意識の問題を考えるにあたって、物理学的還元主義を排している。彼の取る反物理主義はかなり徹底したもので、彼は新たな精神哲学の提唱を試みた本書の序論で、その立場を次のように述べている。

本書で採用するのは反自然主義の視点です。つまり、存在するすべてのものが実際に科学的に調査可能であるわけでも、物質であるわけでもない、という前提に立っています。要するに、私が言っているのは、非物質的現実が存在する、ということです。

P22

 これは、「観念実在論」と言うべき立場だ。彼の哲学は多元的な存在論を前提にしている。この哲学は、すべての現象の背後に一つの現実(世界)があるという想定を否定する。おそらくこの考え方は、カントの「物自体」の一つの変奏(variant)だろう。物自体を不可知論的に捉えるのではなく、多元論的に解釈している。彼の考えに従えば、一つの現実(物理的世界)というのを想定している時点で、脳科学はそもそも間違いなのだということになる。当然、意識の存在は、物理現象としてのみ現れるものではなく、科学から説明できることは限られているという。

 デイヴィット・チャーマーズは、脳内で観察される個々の電気的、化学的反応をどれだけ集めても意識の働きの説明にはならないと指摘し、神経還元主義を否定していた。しかし、それは神経の働きに還元されない脳全体の働きを捉えなくてはならないという意味においてだ。だが、ガブリエルはそれを物理学による説明の破綻を示す証拠として捉えている。彼は、チャーマーズが提唱した問題を逆手に取っていると言える。
 そして、物理主義の破綻というその結論を基に、意識を解明するには、ヘーゲルが『精神現象学』で示したような歴史的記述によるしかないとしている。
 ヘーゲルの精神概念について彼は次のように言う。

精神は自己イメージを通して初めて形作られる、というヘーゲルの基本理念は、精神は多くの物の中にある一つの物ではないということも意味しています。

P68

 意識は「私」の存在と同義ではない。意識それ自体を通して意識について説明しようとしても上手く行かない。意識は立場であり、すべての現実の源泉である。そして、私たちの体験は常に独立した次元をなしている。
 彼の記述はかなり込み入っているが、意識の存在は、現実を理解する上での特異点のようなものと考えているのだろう。

 ここから、意識の主体性と自由意思が導かれる。
 人間の精神は、自己の存在をどう描くかという自画像に依存している。そして、人間は自己像を描く能力を持っている。

私たちは、自分を「私」として解釈し、また自分を意識をもち、自己意識をもった状態として体験し、何かを知ったり、分かち与えたりすることができます。そのためにはある種の身体の仕組みが必要だと理解したところで、それですべてが完全に説明できるわけではありません。私たちが精神をもつ生物であるために必要な生物学的条件あるいは自然的条件を、私たちが歴史的に形作ってきた自己描写の要素と取り違えてしまうのです。このような取り違えは、イデオロギーの基本形です。そして、その背後には必ず、自由から解放されて、最終的には、いつ他者から挑発されるかもしれない自己描写という不安定な脚で立つ負担から解放されている物になろう、とする企てが潜んでいるのです。

P278-279

 ここには、物理還元主義や彼の言う神経中心主義を排除することによって、精神および意識の主体性と自由意思の存在を救済しようとする明確な意図が示されている。

21世紀のための精神の哲学

 人は自分の精神の働きを神経細胞やホルモンの働きにすべて還元されて説明されることには、非常な違和感を抱く。精神の働きが、すべて脳の働きの随伴現象に過ぎないとしたら、意識の主体性は一体どこから生まれてくるのか?無数の神経細胞内を走る電気信号と神経伝達物質によるシナプス上の生化学反応のすべてを集積すれば、意識という存在になるのだろうか?もし仮に脳神経細胞のすべての働きを人工的に再現(simulate)できたら、そこに意識は生じるのだろうか?こうした問いは、今の脳科学からは答えが出ていない。

 しかし、これは科学の敗北を意味しているのだろうか?マルクス・ガブリエルは、物理還元主義を積極的に攻撃し、精神という独自の原理が働く領域を守ろうとしている。だが、しばしば話題が脇に逸れ、やたらと饒舌な彼の説明から、物理還元主義に代わる新たな意識の説明原理の姿はなかなか現れてこない。脳科学だけでは説明できない現象があることを主張するだけで、それに代わる理論を提示するには至っていない。

 意識の主体性と自由意思の存在を脳科学が解明できたわけではまだない。意識の存在を解明するには、現在の哲学や物理学を超えた新たな枠組みが必要になるだろう。それがどんなものになるのか、解明されるのはまだまだ先のことになりそうだ。。。