何が共有されるのか
みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第十七回です。
前回、「独我論」について少し触れました。
独我論とは、私が直接確かめることができるのは自分自身の意識だけであり、自分以外の他者や世界が本当に存在しているかどうかは、最終的には証明できないのではないか、という考え方です。
しかし、独我論は、肯定することも否定することもできない、反証可能性のない議論でした。
たとえ「自分の意識の外側には何も存在しない」と考えたとしても、それを決定的に証明する方法も、それを完全に否定する方法もありません。
それでも、私たちは日常生活において、独我論を受け入れて生きているわけではありません。
私たちは、目の前にある机も、街も、他人も、自分の意識とは独立して存在していると考えています。
なぜでしょうか。
それは、私たちが、自分の主観を超えて共有されている何かがあると考えているからではないでしょうか。
では、いったい何が共有されているのでしょうか。
今回はそれを考えてみたいと思ます。
物質は共有される
まず考えられるのは、物質的な世界です。
例えば、ここに一つの机があるとします。
私がその机を見ている。
あなたもその机を見ている。
さらに、別の人がその机に触れることもできます。
そして、私が部屋から出て、机を見ていない間も、机はそこに残っているでしょう。
このように、物質的な対象には、私たち一人ひとりの主観を超えて存在しているように見える性質があります。
もちろん、私が見ている「机」と、あなたが見ている「机」が、まったく同じ経験であるとは限りません。
私には明るく見えても、あなたには少し暗く見えるかもしれません。
私には滑らかに感じられても、あなたにはそう感じられないかもしれません。
つまり、私たちの知覚そのものは、それぞれの主観に依存しています。
それでも、「そこに何かがある」という点では一致することができます。
そして、その対象は、私が見ていないときにも存在していると考えられます。
この意味で、物質は、私たちの主観を超えて共有されるものの代表だと言えるでしょう。
主観そのものにも共有されるものがある
しかし、共有されているのは、物質だけなのでしょうか。
ここで、少し視点を変えてみましょう。
私たちは、一人ひとり異なる主観を持っています。
好きなものも違えば、嫌いなものも違います。
同じ出来事を経験しても、感じ方は人によって異なります。
人それぞれ、異なる感性や視点を持っています。
しかし、だからといって、私たちの主観が互いにまったく理解できないものだというわけではありません。
むしろ、私たちの考え方や感じ方には、かなり共通した部分があります。
例えば、私たちは色を見ます。
音を聞きます。
物体を知覚します。
時間の経過を感じます。
過去を記憶し、未来を予想します。
ある出来事を原因と結果の関係として理解します。
もちろん、その捉え方には人による違いがあります。
しかし、人間が世界を経験する仕組みには、共通した構造があります。
つまり、私たちは単に「同じものを見ている」だけではなく、世界を経験するための基本的な枠組みそのものを共有しているのです。
これは重要なことです。
なぜなら、客観性とは、単に「誰が見てもまったく同じものが見える」ということだけではないからです。
私たちは、それぞれ異なる主観を持っています。
しかし、その異なる主観の中には、共通した構造がある。
だからこそ、それぞれの認識の違いを超えて、私たちは互いの経験について語り合い、比較し、理解することができるのです。
論理や概念も共有される
さらに、私たちが共有しているものとして、「論理」や「概念」を考えることができます。
例えば、
「AならばBである」
という関係を理解するとき、私たちは論理的な規則を共有しています。
また、「犬」という言葉を使えば、特定の動物についての共通した理解を得ることができます。
つまり私たちは、言葉によって、個々の経験や具体的な対象だけでなく、それらを超えて共通するものを概念として捉え、それを他者と共有することができるのです。
数学も同じです。
「2 + 2 = 4」という命題について、私とあなたは同じ内容を理解し、同じ結論に到達することができます。
ここでは、私たちの意識の中にある考え方そのものが、ある程度共有可能になっているのです。
もし、論理や概念が単なる個人の主観だとすれば、私の「2」とあなたの「2」が、偶然同じように感じられているだけということになります。
しかし、数学や論理について、私たちは個人的な判断とは無関係に、「正しい」「間違っている」と議論します。
「私は2 + 2 = 5だと思う」と言ったとしても、それだけで数学的な真理が変わるわけではありません。
ここには、個人の主観を超えて成立する何かがあります。
「共有される」とは何か
ここまで考えると、私たちが共有しているものには、少なくとも三つの層があることが見えてきます。
一つ目は、物質的な世界です。
机や山や星のように、個人の意識とは独立して存在すると考えられるものです。
二つ目は、主観の構造です。
私たちは一人ひとり異なる経験をしていますが、世界を知覚し、時間を経験し、記憶し、解釈する(意味づけする)といった基本的な構造を共有しています。
そして三つ目が、論理や概念です。
私たちは、個人の経験を超えて、共通の概念を使い、論理的な規則に従い、数学的な真理について議論することができます。
この三つは、同じ意味で「共有されている」わけではありません。
物質は、私たちの意識とは独立した対象として共有されます。
主観の構造は、人間に共通する認識の枠組みとして共有されます。
論理や概念は、個々の主観を超えて、誰に対しても成り立つものとして共有されます。
つまり、「共有される」という言葉にも、いくつかの異なる意味があるのです。
客観とは何か
ここで、独我論の問題に戻ってみましょう。
独我論が突きつけているのは、「私の意識の外側に、本当に共有された世界があるのか」という問いでした。
しかし、私たちは日常生活の中で、単純に「自分以外の世界がある」と信じているだけではありません。
私たちは、
物質を共有し、
世界を経験するための構造をある程度共有し、
さらに論理や概念を共有しています。
だからこそ、私たちは互いにコミュニケーションを取り、同じ世界について語り、意見を交換し、議論することができます。
ここから、「客観的である」とは何かという問題も見えてきます。
客観的であるとは、単に「誰が見てもまったく同じに見える」ということではありません。
むしろ、それぞれ異なる主観を持つ私たちが、その違いを超えて「共有している何か」があるということです。
異なる主観を持ったままでも、共有できる対象や構造や規則が存在する。
その共通性によって、私たちは「自分だけの世界」から抜け出し、他者と同じ世界について語ることができるのです。
それらを基盤とすることで、私たちの間に「客観性」という概念が形成されているのです。
共有から普遍へ
独我論は、「私の意識の外側に何があるのか」という問いを突きつけました。
そして、その問いを考え続けると、今度は別の問いが現れてきます。
私たちは、何が共有できるのか。そして、いったい何を共有しているのか。
物質でしょうか。
世界を経験する構造でしょうか。
論理や概念でしょうか。
あるいは、それらすべてなのでしょうか。
ここで、以前お話しした「哲学とは何を問う学問なのか」という問題にもつながってきます。
哲学は、普遍的なものを問う学問だと、以前述べました。
では、そもそも「普遍的なもの」とは何でしょうか。
それは、単に多くの人が同じように考えているものではありません。
私たち一人ひとりの主観を超えて、異なる人間の間で共有し、議論することができるものです。
そう考えるなら、「共有されるもの」を考えることは、そのまま「何が普遍的なものなのか」を考えることでもあります。
そしてそれは、私たちが「私」という閉じた存在から、どのようにして「私たち」という世界へと出ていくのかを考えることでもあるのです。
それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。




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