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【自分の頭で考える哲学】第18回 ― 哲学と倫理

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哲学と倫理

みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第十八回です。

これまで問題として取り上げてこなかった、重要な主題が一つ残っています。

倫理の問題です。

哲学は「どう生きるべきか」を問う学問だと言われることがあります。

実際、「哲学」という言葉から、善とは何か、正義とは何か、幸福とは何か、といった倫理的な問題をまず思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。

「どう生きるべきか」という問いに答えることこそ、哲学の本当の問題だと考えている人も多いでしょう。

なぜ哲学は、このように倫理の問題と深く結びついているのでしょうか。

哲学の最初のあり方に目を向けると、一つの歴史的な事実に突き当たります。

もともとの哲学は、「世界はなぜこのようにあるのか」という問いから始まりました。

世界は何からできているのか。
なぜ物事は変化するのか。
世界にはどのような秩序があるのか。
そもそも「ある」とはどういうことなのか。

哲学は初め、このような問いから出発したのです。

では、もし、哲学が「世界のあり方」を問う学問だったとしたら、それがなぜ「人間はどう生きるべきか」という倫理の問題を扱うようになったのでしょうか。

「世界について問う哲学が、なぜ倫理を問題にするのか」という問いそのものが、むしろ、哲学とは何かを考える重要な入口になります。

結論から言えば、哲学が倫理を問題にするのは、単純に哲学の関心が「世界」から「人間」へ移ったからではありません。

「世界がどうなっているのか」を問い始めると、その世界の中に存在している私たち自身のあり方、つまり「私たちはどう生きるのか」という問題も、次第に現れてくるからです。

今回は、この哲学と倫理の関係について考えていきましょう。

哲学の出発点は、「世界はなぜこうなっているのか」

少し哲学史的な話をしましょう。

古代ギリシアの初期の哲学者たちは、神話による世界説明から離れ、世界そのものを合理的で一貫した仕方で理解しようとしました。

世界は何からできているのか。
物事はなぜ変化するのか。
世界にはどのような秩序があるのか。

たとえばタレスは、万物のアルケー、つまり根源とは何かを問いました。
ヘラクレイトスは、世界の生成変化と、その背後にある秩序を考えました。
パルメニデスは、「あるもの」と「ないもの」を問題にしました。

現代的な分類をすれば、これらは自然哲学、存在論、形而上学に関わる問題です。

したがって、「哲学とは、そもそも世界とは何なのかを問う営みである」という理解には、哲学の歴史に照らしても十分な根拠があります。

しかし、ここから一つの問題が生じます。

世界を正しく理解することは、その世界を理解している人間自身のあり方を無視して、成立するのでしょうか。

「世界」を問うことは、「人間」を問うこと

たとえば、世界が単なる無秩序な出来事の集まりではなく、何らかの秩序を持っていると考えてみましょう。

すると、次のような問いが生まれてきます。

そのような秩序の中に、人間はどのように位置づけられるべきなのか。

世界がある秩序のもとに成り立っているのだとすれば、人間のあり方も、その秩序に則ったものでなければなりません。

これは、ソクラテス以降の哲学において、はっきりとした形をとるようになります。

ソクラテスが問題にしたのは、
「善とは何か」
「正義とは何か」
「徳とは何か」
「よく生きるとは何か」
といった問いでした。

ここには、単に「世界がどうなっているのか」を知るだけではなく、「その世界の中で、人間はどのようにあるべきなのか」まで考えなければならないという発想があります。

世界の中に存在する人間自身について考え始めると、そこには必然的に、「私たちはどう生きるべきなのか」という問題が現れてきます。

つまり、哲学は「世界とは何か」を問うことから出発しながら、その世界を問い、理解しようとしている私たち自身のあり方へと問いを向けることになります。

そして、そのとき哲学は、倫理の問題と出会うのです。

「ある」と「べき」

ここで、重要な区別をしておかなければなりません。

たとえば、
「人間は利己的な傾向を持っている」
という命題があるとします。

これは、人間についての事実を述べています。

しかし、そこから、
「だから、人間は利己的に生きるべきである」
という結論が、そのまま導かれるわけではありません。

つまり、
「世界はどうなっているのか」
という問題と、
「人間はどう生きるべきなのか」
という問題は、論理的には別の問題なのです。

前者は存在や事実に関わり、後者は価値や規範に関わります。

この問題は、後にヒュームが「is(ある)」と「ought(べき)」の区別として明確に問題にしたものでもあります。

そう考えると、
「哲学は世界の真理を探究するものなのだから、やはり倫理は哲学とは別なのではないか」
という疑問には、一理あります。

実際、倫理学には倫理学固有の問題があります。

世界についてどれだけ正確な事実を知ったとしても、それだけで「何をすべきか」が自動的に決まるわけではありません。

では、それでもなぜ哲学は倫理を問題にするのでしょうか。

それでも倫理が哲学の問題になるのは、「人間」もまた世界の一部だからです。

主体としての人間

哲学が「世界とは何か」を問うとします。

しかし、その世界について問いを立てているのは、人間です。

そして人間は、単に世界を眺めている存在ではありません。

人間は、
認識する。
判断する。
選択する。
行動する。
他者と関係する。

つまり、人間は世界の中に存在しながら、その世界について考え、自分の行為を選択する存在なのです。

哲学はまず、こう問いかけます。

なぜ、何もないのではなく、何かがあるのか。

ここから、存在についての問いが始まります。

そして次に生じるのが、認識の問題です。

その「あるもの」を、私たちはどのように知るのか。

さらに、その「あるもの」の中に存在する私は、どのような存在なのか、という問いが生まれます。

私は、どのような存在なのか。

そして、その私は一人で存在しているわけではありません。他者とともに世界の中に存在しています。

そこで、さらに次の問いが生まれます。

私は、他者とどのような世界を共有しているのか。

そして最後に現れるのが、倫理の問題です。

その共有された世界の中で、私はどのように行為すべきなのか。

つまり、世界の中に存在する人間とは何か、という問いを突き詰めていくと、人間の行為や生き方の問題が現れてくるのです。

もちろん、「人間とは何か」から「人間はどう生きるべきか」が論理的に自動的に導かれるわけではありません。

「ある」と「べき」は区別しなければなりません。

その意味で、哲学と倫理学は、それぞれ独立した学問領域です。

しかし、両者を考える主体が同じ人間である以上、両者は無関係でもないのです。

「世界とは何か」と「その世界の中で私はどう生きるのか」という二つの問いは、人間が自らを世界の中に位置づけようとするとき、深いところで結びついているのです。

哲学と倫理の歴史

古代哲学では、自然についての理解と、人間がどのように生きるべきかという倫理の問題は、しばしば密接に結びついていました。

たとえば、古代の代表的な哲学として、ストア派の哲学を見てみましょう。

ストア派の哲学では、宇宙はロゴス(宇宙を貫く理性的原理)によって秩序づけられていると考えられました。そして人間もまた宇宙の一部であり、ロゴスに参与する理性を持つ存在とされました。
そのため、人間にとって善く生きるとは、自らの理性を働かせ、宇宙の理性的な秩序に沿って生きることだと考えられたのです。

つまり、

  • 世界全体が「ロゴス(理性・神・自然法則)」という能動的な原理によって秩序づけられ、統制されている
  • 人間は宇宙(マクロコスモス)の一部(ミクロコスモス)であり、人間自身の理性もまた、宇宙全体のロゴスから分与されたものである
  • 人間は自らの理性によって、その秩序を理解することができる
  • したがって、自然に即して生きることが、よく生きることにつながる

という関係が成り立っています。

ストア派にとって、自然学(世界はどのようなものか)と倫理学(人間はどのように生きるべきか)は、別々の領域ではなく、一つの哲学体系の中で結びついていたのです。

一方、近代哲学になると、「そもそも私たちは世界をどのように認識できるのか」という認識論の問題が重要な位置を占めるようになります。

そこでは、
「私たちは何を知ることができるのか」
「確実な知識とは何か」
「真理や客観性とは何か」
といった問いが重要な問題となります。

そして、こうした認識の問題を掘り下げていくなかで、「人間とは何か」や「私たちは何をなすべきか」といった問いも、「そもそも私たちは人間について何を知ることができるのか、また、何をなすべきかをどのように判断できるのか」という認識の問題と結びつけて考えられるようになります。

したがって、哲学の歴史を単純に、「世界」から「人間」へ、そして「倫理」へと対象が広がっていったと考えるよりも、「世界を理解するとはどういうことか」という問題を深く掘り下げていった結果、その世界を認識する人間自身の問題が前面に現れてきたと考えたほうがよいでしょう。

倫理を哲学する

では、最初の問いに戻りましょう。

なぜ哲学は倫理を問題にするのでしょうか。

今まで見てきたように、それは単に、哲学の対象が「世界」から「人間」へと移行したから、というだけではありませんでした。

哲学が世界を問い、その世界を認識する人間を問い、さらにその人間がどのような存在なのかを問い始めるとき、そこには、「その人間はどのように生き、どのように行為するのか」という問題が現れてくるからです。

つまり、「世界とは何か」という問いを突き詰めていくと、やがて「人間とは何か」「人間はどう生きるべきか」という倫理の問題に行き着くことになります。

そして、この結びつきを考えていくと、さらに一つの問いが現れます。

そもそも、なぜ人間は「どう生きるべきか」を問わずにはいられないのか。

ここで問われているのは、単に「どう生きるべきか」という倫理的な答えではありません。その手前にある、「なぜ人間は倫理を問題にしなければならないのか」という、より根本的な問いです。

ここまで考えると、倫理の問題についても、その根底にあるものを問い直さなければならなくなります。

そして、その問いは最終的には再び、「世界とは何か」「人間とは何か」という、哲学そのものの根本問題へと戻っていくのです。

それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。

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