ネタバレ注意!
作品の核心に触れる内容(結末・重要な展開)を含みます。未読の方はご注意ください。ネタバレを避けたい場合は、ここで読むのをお控えいただくことをおすすめします。
ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』
Gaston Leroux, Le Fantôme de l’Opéra, 1910
愛されなかった者の倫理──エリックという悲劇
かわいそうなエリック。不幸な男。彼を哀れむべきだろうか?呪うべきだろうか?彼はただ皆と同じ人間になりたいと願っただけなのに。けれどもあまりに醜すぎた。もしも容貌があれほどでなければ、堂々たる名匠、巨匠として名を馳せただろうに、天賦の才を隠すか、それを見世物にしなければならなかったとは。彼は世界をその手に収めたいと願いながら、結局は地下室で満足せねばならなかった。オペラ座の怪人のことは、やはり哀れんでしかるべきだろう。
p.423 Kindle Edition
彼は数々の罪を犯したが、それでもわたしは神の哀れみがあらんことを願い、彼の亡骸に祈りを捧げたのだった。なにゆえに神は、かくも醜い人間をお作りになったのか?
ゴシックロマンの傑作と知られる『オペラ座の怪人』。1910年の出版だが、この作品を百年以上を経た今においてもなお、現代的なものにしているのは、エリックの造形にあると言っていいだろう。
彼は、単なる怪物として描かれているのではない。過酷な運命の帰結として人格を歪ませていった、一人の哀れな人間として描かれている。超自然的な怪異としてではなく、ただのありふれた人並みの幸せを望んだだけの一人の男だ。他の誰とも違いはない。ただ彼の背負った運命があまりに過酷だった、というだけだ──。
この作品に、一つのテーマ性があるとしたら、それは、全く本人に過失のない不幸な運命によって悪に落ちた人間に罪はあるのか、という問いだろう。そして、そこに救いがあるのか、という倫理的主題がこの作品には重ねられている。
運命によって歪められた人格は責められるのか
作者のガストン・ルルーは、彼を怪物として描きながら、決して完全な「他者」にはしなかった。エリックは悲劇的に醜(みにく)い。生まれた瞬間から、母親にさえ顔を背けられ、縁日の見世物小屋で嘲笑われ、ペルシャの宮廷で暗殺の道具として使われ──その生涯は、拒絶の連続だった。
だがその醜さは、彼自身の罪ではない。それにもかかわらず、彼は世界から拒まれ続け、その拒絶を内面化していく。そこにあるのは、単純な被害者意識ではなく、「自分は愛されない存在である」という確信に近い諦念だ。
興味深いのは、彼がその絶望のただ中にあってなお、美を希求していることである。音楽に対する彼の執着は異様なほど純粋だ。音楽は彼にとって、世間から評価される唯一の手段だったからだ。自分の存在を徹底的に拒絶していた世間に対して、唯一のつながりだった。それゆえにこそ音楽への執着は大きなものになる。
オペラ座の地下という閉ざされた空間で、彼は理想の旋律を構想し続ける。光の届かない場所で、誰にも認められないままに美を追い求める姿は、ある種の宗教性すら帯びている。だが、その純粋さが同時に、彼を現実からさらに遠ざけてもいる。
エリックにとって、クリスティーヌへの愛は救済の可能性だったのだろう。彼女は初めて、自分の歌を聴き、音楽を理解してくれる存在として現れた。
だがその愛は、やがて歪む。彼は愛されることを知らないがゆえに、愛を「所有」と取り違える。彼は自分の存在が決して受け入れられないものだということを強く意識している。拒絶されること──それは、彼にとってはあたかも自然法則のようなもとして立ち現れていた。
考えてみれば、エリックは常に仮面をかぶっている。顔を隠すための仮面であると同時に、それは社会に適応するための最低限の装置でもある。だが彼の場合、その仮面はあまりにも薄く、あまりにも脆い。ひとたび剥がされれば、彼は「怪物」としてしか存在できなくなる。仮面は、彼の存在を支える最後の防壁なのである。
ここで浮かび上がるのは、愛の本質に関する問いだ。愛とは、あるがままの他者を受け入れる行為である。だとすれば、仮面越しの関係は成立しうるのか。偽りの姿を愛することは、そもそも愛と呼びうるのか。エリックが直面した問題は、この根源的な矛盾にほかならない。
本当の姿を見せることは、拒絶という結果しか生まない。彼にとってそれは、石を湖に投げ入れれば沈む、というくらい自然の摂理だったはずだ。この拒絶への恐怖が、相手を拘束する衝動へと転じる。この転倒は痛ましいほどに自然で、だからこそ読者は彼を単純に断罪できない。
エリックがクリスティーヌに素顔を見られてしまう場面がある。それまで、クリスティーヌは、エリックを愛してはいないとしても憐れんでいて、決して見捨ててはならない存在として受け止められていた。だが、素顔を見られたエリックは、彼女をもう拘束するしかないと思い込んでしまう。
自分が決して他人から受け入れられないという意識は、社会秩序と良識に対する強い反感だけでなく、自己認識そのものの歪みを生んでいる。この歪みは彼自身をも拘束している。この意識ゆえに彼自身も自由になれないでいるのだ。自分自身を信じられないがゆえに、彼女を拘束するしかないと思い込んでしまっている。それが彼を最後の悲劇へと追いやってしまう。
罪と倫理
終盤、彼が見せるわずかな変化は、劇的な救済とはほど遠い。むしろそれは、ようやく自分の望みが叶わないことを受け入れる静かな諦めに近い。だがその諦めの中に、かすかな倫理が芽生えているようにも見える。
「いいか、ダロガ、よく聞いてくれ。おれは彼女の足もとにひれ伏していた。そのとき彼女はこう言ったんだ。『かわいそうなエリック。不幸な人』ってな。そしてこの手をとった。おれはもう、ただの哀れな犬ころだった。彼女のためならいつでも死ねる犬。そういうことさ、ダロガ。
p.411 Kindle Edition
おれはそのとき金の指輪を手に持っていた。前にあげた婚約指輪。彼女がなくしてしまったのを、見つけてとっておいたんだ。それを彼女の小さな手にそっと握らせ、こう言った。さあ、これを。おまえと……彼のために……わたしからの結婚祝いだ。かわいそうな、不幸なエリックからの贈り物だ……わかっているさ。おまえは彼を愛しているんだろう、あの若者を。もう泣かなくていいと。どういうことなの、と彼女はやさしい声でたずねた。だからおれは説明した。彼女はすぐに理解した。おれがただの哀れな犬にすぎないことを。彼女のためならいつでも死ねる犬ころだということを。けれどもおまえは好きなように、あの若者と結婚すればいい。だっておまえはおれといっしょに泣いてくれたのだから……ああ、ダロガ、わかるだろう……こんなふうに言ったとき、おれはこの心臓がずたずたに引き裂かれるような思いだった。けれども彼女は、おれといっしょに泣いてくれた……『かわいそうなエリック。不幸な人』と言ってくれたじゃないか」
愛されなかった者が、最後に選ぶ行為としての「手放すこと」。
彼女が自分のために涙を流したこと──それだけでも、彼にとっては救いだったのだ。それは、激しい苦しみを伴うような救いだ。だが、彼はここで初めて執着──彼自身をも拘束していた認知の歪み──から解放される。クリスティーヌを自由にすることは彼にとって喪失であるとともに、同時に彼が初めて獲得した自由でもある。
エリックという存在が、最後に見せた倫理性の欠片は、誰かがほんのひとときだけでも、自分のために泣いてくれるなら、救われうるという可能性を示したものと言えるだろう。もっと早い段階で、誰かダロガやクリスティーヌのような理解者に出会っていれば、結果はもっと違ったものになり得たのではないか。自己認知の歪みはどこかで、僅かであったとしても修正されていたかもしれない。
この小説が描く恐怖は、怪物としての恐ろしさではなく、「理解されなかった感情」の恐ろしさである。彼の地下の部屋は、社会から切り離された場所であると同時に、言葉にならなかった感情が沈殿する場所でもある。
エリックはクリスティーヌの救いを胸に自死を選ぶ。彼は最後に、自由になれたのだろうか。あるいは、救われたのだろうか。
「いいえ」ペルシャ人は悲しげに答えた。「憎んではいません。憎んでいたら、 とっくに悪事をやめさせていたでしょう」
p.298 Kindle Edition
「あなたも彼の被害者なんですか?」
「彼がわたしにしたことは、許しています」
「あなたがあの男のことを話す口ぶりは、とても奇妙ですね」若者はさらに言った。
「あなたは彼を怪物扱いし、彼の犯罪について語り、彼から害もこうむっている。
ところが信じられないことに、まるで彼を哀れんでいるみたいだ。悲しいかな、クリスティーヌもそうだったんです……」
引用:ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』光文社古典新訳文庫 (2013)



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