ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』光文社古典新訳文庫 (2013)
Gaston Leroux, Le Fantôme de l’Opéra, 1910
ゴシックとロマン──近代が排除するものへの視線
『オペラ座の怪人』(1910)は、一般的に怪奇小説、あるいはゴシック・ロマンとして知られている。しかし文学史的に見るなら、この作品は、世紀転換期の感性を映し出すきわめて興味深い位置にある。そこでは、19世紀ロマン主義の残響と、20世紀近代小説の感覚とが交差している。
作者のガストン・ルルーは、作家になる前は、新聞記者としてキャリアを積んでいる。その出自は、この小説の語りの形式に色濃く反映している。
物語はあくまで「実在の事件」を調査した記録の体裁を取り、証言や資料、回想が組み合わされている。この疑似ドキュメンタリー的手法は、ゴシック小説の伝統を継承しつつも、探偵小説的合理性を導入することで、怪人を単なる怪異として終わらせることなく、現実の恐怖として描いている。仮面の怪人エリックは幽霊ではなく、説明可能な存在として提示される(原題のファントム fantômeという言葉は、「怪人」ではなく「幽霊」の意味)。
こうした合理化の志向は、世紀転換期に隆盛した推理小説の文脈とも深く結びついている。事実、作者ガストン・ルルーは本作に先立ち、『黄色い部屋の秘密』という推理小説を発表していて、その方法論は本作にも明確に引き継がれている。
舞台は、現実のパリに存在するオペラ座──パレ・ガルニエ。この壮麗な建築は、第二帝政の権威と華美を象徴する一方で、地下に広がる迷宮的空間によって、近代都市が抱える「二重性」を体現している。
地上の舞台が光と名声に満ちた可視の世界であるのに対し、地下は人々の目から切り離された不可視の領域として存在する。作中で示唆されるように、この地下空間はパリ・コミューン期に牢獄として利用された過去を持ち、容易に人の立ち入れない閉ざされた場所として描かれている。実際、この劇場自体もパリ・コミューンの戦闘に巻き込まれた歴史を有している。
エリックは、この地下に棲む存在として造形される。彼は音楽という純粋な芸術を渇望しながらも、その身体ゆえに社会から排除され、地上の世界から切り離されている。
この構図において浮かび上がるのは、近代社会が内包する構造的対立だ。「理性」と「狂気」、そして「秩序」と「排除」という対立が、この空間配置の中に凝縮されているのだ。
そもそもゴシック小説(ゴシックロマン)とは、18世紀後半のイギリスにおいて、理性万能を掲げた啓蒙主義への反動として生まれた文学形式だった。『オトラント城奇譚』(1764)に始まり、『フランケンシュタイン』(1818)に連なる作品群のなかでは、恐怖や怪異、崇高、退廃といった要素が、単なる娯楽としてではなく、「理性では捉えきれないもの」を可視化する装置として機能する。廃城や地下迷宮といった空間は、単なる舞台ではなく、人間の内面や社会の抑圧構造の象徴なのだ。
文学史的に見れば、本作は明らかにゴシック小説の系譜に連なる。醜い外貌、地下の住処、若き女性への執着──これらは明らかにゴシック的モチーフだ。
しかし、本作が他のゴシックロマンと決定的に異なっているのは、怪物に対して、倫理的・心理的内面を与えられている点だろう。エリックは単なる恐怖の装置ではない。彼は愛を知り、拒絶に苦しみ、自らの暴力性と葛藤する存在として描かれている。その内面化は、怪物を「他者」から「悲劇的主体」へと変容させる。
怪異はもはや外部の超自然ではなく、人間の内部、あるいは社会の構造そのものから立ち上がるものへと変化している。怪人エリックとは、近代が生み出した「見えない存在」の象徴にほかならない。
この点で、『オペラ座の怪人』はロマン主義の末裔でもある。醜さのうちに崇高を見いだす視線は、ユゴー的想像力の延長線上にある。だが同時に、それは近代の心理小説へと歩み寄っている。エリックの孤独は社会構造の産物であり、彼の暴力は愛の歪みとして説明される。恐怖は、社会的排除と欲望の帰結として現れるのである。
ゴシック小説にしろ、ロマン主義にしろ、啓蒙の思想から排除されてしまった人間の情念──明晰な理性からは決して捉えられないもの──を描こうとした点は共通している。
エリックの存在は、その象徴だ。彼は近代が掲げる「自由・平等・博愛」という理念の外側へと追いやられた異端者だった。社会は、異端者を排除することで内部の秩序と価値観を維持する。その意味でエリックは、社会が自らを「正しいもの」と規定するために必要とされた被差別者だったと言える。
そもそも近代社会は、自らの価値体系に適合しないものを異端として周縁化し、ときに排除することで成立してきた側面を持つ。そして人々は、意識的であれ無意識的であれ、その排除の上に社会が成り立っていることへの不安や罪悪感を抱えながら生きている。
だからこそ、エリックのような存在を社会の中でどのように位置づけるべきなのかという問いは、単なる個人の悲劇を超えて、近代文学が向き合うべき重要な課題として立ち現れるのである。
仮面の象徴するもの
この物語は最終的に怪物──排除された側──が、自らの罪を背負って自死することで終りを迎える。
エリックは退場し、社会の秩序は回復される──。しかし、そこにあるのは幸福な結末ではない。読者の記憶に残るのは、彼の地下の部屋と、そこに響いた音楽の余韻だ。社会の表に立つ者たちは、事件を忘れ日常へと帰っていくだろう。だが、一方で、地下に沈んだ者の声はそこにとどまり消えることはない。この余韻こそが、本作を単なる娯楽小説以上のものにしている。
果たして、排除された者に救いはあったのだろうか?
社会が排除される者を生み出している以上、その社会の内部には、彼を救う手段は存在しない。ゆえに、排除された者は何らかの「救い」にすがらざるを得ない。
怪人エリックにとって、その救いはクリスティーヌ・ダーエへの愛であった。しかし、その愛は当初から悲劇的な歪みを帯びていた。彼の愛は決して受け入れられることのないものであり、その前提自体がすでに破綻を孕んでいるからだ。
その結果、彼の愛は、近代の秩序──その象徴として描かれるパリのオペラ座──を破壊するという、破滅的なかたちでしか実現しえないものとなる。
この状況を転換するのが、クリスティーヌ・ダーエが最後に示す献身だった。彼女は自らの人生を犠牲にし、エリックと生きることを選ぶ。それは純粋な愛とは言いがたいかもしれないが、憐れみに根ざした自己犠牲であり、その精神は、たとえ一時的であれ確かに真実だったと言える。
自殺を思いとどまり、静かにエリックを待つ彼女の姿には、従容として十字架へと向かうキリストのイメージが重ねられている。彼女が最後にエリックの部屋で『キリストのまねび』を静かに読む場面は、その象徴性を強く示唆している。
この献身によって、エリックは初めて「救い」に触れる。しかしそれは、彼にとって、決して安らぎをもたらすものではなく、深い苦しみを伴う救いだ。社会から排除された異端者は、結局のところ、自らをその社会から切り離すことでしか、苦しみから逃れることができない。
クリスティーヌの献身は、そのことをエリックに気づかせるための「救い」なのだ。すなわち、自らを排除してきた社会への執着を離れることによって、自らを自由にするとともに、救われるのである。エリックは彼女を解放する。それは、自分自身の解放でもあったはずだ。
だが、この「救い」は、社会との和解の中で実現するものではなく、むしろ断絶の中で成立する。ゆえにそれは、近代社会にとっては、救済というよりも、ひとつの悲劇として立ち現れる。
こうした結末は、近代社会に特有の不安を浮かび上がらせる。
異端者を排除することへの罪悪感と、自らもまたいつ異端者へと転落するかもしれないという怖れ──それは、近代以降人々の間に纏わり続けている。
仮面はその不安の象徴である。人は誰しもが仮面をつけている。仮面があるうちは、自らを社会の一員として振る舞うことができる。しかし、一度(ひとたび)仮面を失ってしまえば、異端者であり、差別と排除の対象へと転じてしまう。エリックの仮面は、脆く薄いものだったが、我々の仮面も決して強固なものとは言えないのだ。
20世紀に入ると、本作は数多くの翻案を生み、特に舞台芸術の領域で再生産され続けた。その代表例が、作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバーによる1986年初演の『The Phantom of the Opera』だろう。原作のゴシック性はロマンティックな旋律によって増幅され、怪人はより一層、悲劇的ヒーローとして愛される存在になった。この受容史は、原作が持つ「怪物への共感」という近代的感性が、いかに強靱であったかを示している。
結局のところ、『オペラ座の怪人』は「断絶の文学」である。怪物と人間、理性と情念、栄華を極める劇場と抑圧された者の地下、さらには19世紀と20世紀──本作は、近代が生み出したこれらの断絶を鮮明に描き出している。
しかし重要なのは、その断絶を埋める方法が、社会の側からは一切提示されていない点だ。この「解決の不在」こそが、物語に固有の不安定さを与え、それが作品を古びさせない要因となっている。
仮面は、この断絶の狭間にある。仮面は境界の存在を可視化すると同時に、「排除する側」と「排除される側」を隔てる差異が、実はきわめて脆いものであることを示している。そして、近代が生んだこの分裂は、いまだに私たちの問題でもある。
だからこそ、この小説は単なる怪奇譚にはとどまらない。本作は、近代という時代の中で地下へと排除された異端者の存在を照射する、一つの文学的装置として機能しているのである。




コメント