運命という不条理 – カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(2005)

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

Kazuo Ishiguro, Never Let Me Go, 2005

ネタバレ注意!

 未読の方は閲覧しないことをおススメします。

 多感な頃の不安定な心理と人間関係を繊細な筆致で描いていく―――

 この小説の特徴を一言で表そうとしたら、このようになるだろうか。物語は、ある少女の学生時代の思い出から始まる。

 仲間内での評価や立ち位置を気にして素直になれない気持ち、友人との仲違いや誤解に感じる後ろめたさ、心を打ち明けて話したときの友情、そして、外の世界への好奇心、成長することへの不安、将来への無邪気な夢、憧れと同時に不信の対象でもある大人たち。。。

 誰もが学生時代に感じるような繊細な感情を丁寧に描いていく。話の展開は、極めて抑制されていて起伏がなく、この物語の語り手であるキャシーの半生が、ヘールシャムの学生時代から卒業後のロッジの生活、介護人として働くまで、「淡々とした」とでもいうような自然な流れの中で描かれていく。

 キャシーとトミー、ルースといった友人たちとの関係が、彼らの成長に合わせ、その都度、丹念に描かれる。

 これだけ見ると、あたかも青春小説のようだが、実際は違う。この物語には、奇妙な設定が設けられている。
 ヘールシャムの学生寮で生活するキャシーやその他の子供たちは皆、臓器の提供者であり、そのためだけに造られたクローンである。
 この奇妙な設定は、序盤の端々に匂わされているが、読み進めていくうちに徐々に明らかにされるという構成をとっている。

本当の主題

 この物語は、急速に進歩する遺伝子操作技術や臓器移植の是非といった現代に生きる人々の生命倫理を主題としたかったのだろうか。一読した印象では、私はどうも違うのではないかと感じている。

 臓器提供やクローンは、物語上のただの仕掛けにすぎず、主題はおそらく他にある。

 この物語を読んでいて、終始感じる奇妙な違和感は、「提供者」である彼らはなぜ抵抗しないのか、彼らはなぜその事実をそのまま受け入れているのか、というところにある。

 提供者であるキャシーやトミー、ルースといったこの物語の中心的な人物たちが、この小説では全くと言ってよいほど人間的に描かれていないのだ。そもそも彼らがあまりにも自分たちの運命というものに従順だ。
 彼ら友人同士の関係やそれにまつわる感情は微に入り細を穿ち描いているのに、最も人間的な部分でその描写が欠けている。
 それは、自我であり自尊心であり、「生きたい」という強い欲望だ。
 彼らの心理が丹念に描かれれば描かれるほど、その奇妙さが際立ってくる。

 人は何に対して、生きることの喜びや充実感を見いだすだろうか。つまりは、生きることの意味を何に求めるだろうか。その答えは人それぞれだろうが、それを見いだすことができるためには、一つの条件が必要になる。それは、自分の人生は自分自身で決めるという感覚だ。つまり、自分の生に対する自己決定権である。どんな生きる目標も充実感も、それがあって初めて意味を持つものだろう。自我も自尊心もそこから生まれる。
 だが、彼らはそれが初めから奪われている。ヘールシャムの学生たちは、幼い頃から自らの運命をおぼろげながらに自覚している。そして、成長するにつれ、自らの運命を理解し、自らその役割を自覚していく。まるで東洋的な諦念とでもいうような心理でごく自然とその運命を受け入れている。卒業するまでには、提供者としての役割を全うすることが自分の使命だと言うようにまでになっている。

 では、彼らは自らの境遇に疑問を抱かないような存在としてはじめから造られているのだろうか。だが、それも違う。彼らの学生生活や日常は、われわれと全く変わらない。むしろ、ありふれたものというぐらい普通なのだ。そして、この物語は彼らのごくありふれた日常こそを淡々と描いている。彼らの抱く心情や悩みといったものは、誰もが共感できるようなものだ。それだけに、彼らの背負わされた宿命が日常の背後から、異様な姿で垣間見えてくるのだ。

 彼らは決して中身のない人間たちではない。その証拠に彼らは自らの決定権を決してすべて放棄しているわけではない。ルースは運命に従いながらも、懐疑や不満を内に秘めている。キャシーとトミーは、僅かな噂を信じて、提供がほんの数年猶予される可能性にかけて行動する。ルースもまたそれを助けようとしている。ヘールシャムのエミリ先生とマダムと呼ばれたマリ・クロードは、提供者たちが、普通の人間と全く変わりないと分かっているからこそ、彼らを人間として、豊かな感受性をもった人として育てようとした。
 キャシーは、外の世界も知っているし、自らの境遇も正しく理解している。将来は雑誌で見たような綺麗でおしゃれなオフィスで働きたいと夢見ている。ありふれたごく普通の少女に過ぎない。それは他の生徒達でも同じである。だが、それにもかかわらず、彼らは「提供者」という自らの運命の前に、極めて従順に従うのだ。しかも、疑うことすらせずに。

 結局、この物語が描きたかったこととは、このことなのではないだろうか。
 私たちは、自分の人生は自分で決めていると思っている。すくなくとも、すべてが他者に決定されているとは考えていない。
 しかし、自分の人生の決定権とは、いったいどこまでのことを言うのだろうか。多かれ少なかれ、自分の生まれた境遇というのは、自分の意志とはかかわりなく与えられたものだ。その運命に対して、われわれは、どこまで疑い、抵抗しただろうか。また、出来るのだろうか。

私たちは本当に自由か?

顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。

 この小説の最後の一節だが、われわれが人生に対してとっている態度とは実はこのようなもののではないだろうか。

 われわれは何気なく生き、何気なく日常を過ごしている。しかし、自分の生を決定する運命は、日常の背後でずっと息をひそめて存在し、時々その姿を垣間見せるのだ。それが自分にとってどんな意味を持つものであっても。そこに抗えない運命の恐ろしさや人間の儚さがあるのだと思う。