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【自分の頭で考える哲学】第5回 ― 認識とは何か

哲学談戯

認識とは何か

みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第五回です。

これまで私たちは、
「名前と存在」
「個物とは何か」
「私とは何か」
「同一性とは何か」
というテーマについて考えてきました。

その中で見えてきたのは、私たちが当たり前だと思っていることが、実はそれほど当たり前ではないということでした。

私たちは名前によって世界を理解しています。
世界には、多種多様な個物が溢れています。
私たちは自分自身を「私」と呼んでいます。
私たちは変化し続けるものに同一性を認めています。

しかし、そのどれもが少し掘り下げてみると、不思議な問題を含んでいました。

今回は、それらすべての前提になっている問題を考えてみたいと思います。

今回のテーマは、「認識とは何か」です。

私たちは本当に世界を見ているのか

まず、目の前にあるコーヒーカップを見てください。

私たちは何の疑いもなく、「コーヒーカップがある」と言います。

少し言い換えると、コーヒーカップを見て、コーヒーカップの存在を認識します。

しかし、少し考えてみましょう。

私たちは本当にコーヒーカップそのものを見て、その判断をしているのでしょうか。

たとえば今、コーヒーカップの裏側は見えていません。底も見えていません。
その裏側や底がどのような形をしているのか、実際には確認していません。

もしかすれば、裏側に扉があり、底にお金を入れる仕組みが付いているかもしれません。

目の前にあるものは、実は貯金箱なのかもしれません。

それにもかかわらず、私たちは迷うことなく、「これはコーヒーカップだ」と判断します。

実際に見えている情報はごく一部です。

それなのに、私たちはそこに一つのコーヒーカップを認識しているのです。

なぜでしょうか。

見えているものと理解しているもの

もう少し分かりやすい例を考えてみましょう。

友人が遠くから歩いてくるとします。
まだ顔ははっきり見えません。
しかし私たちは、「あ、○○さんだ」と分かることがあります。

そのとき実際には何を見ているのでしょうか。

歩き方かもしれません。
服装かもしれません。
髪型かもしれません。
あるいは、もともと会う約束をしていて、その人が来ることを知っていたのかもしれません。

つまり、私たちは、目に入ってくる情報だけを受け取っているわけではありません。

過去の記憶や経験、その場の状況なども使いながら、「これは誰か」を判断しているのです。

コーヒーカップの例も同じです。

確かに、目の前にあるものが貯金箱である可能性を完全に否定することはできません。

しかし私たちは、そのような貯金箱を見たことがありません。また、そのような形の貯金箱が置かれている理由も思い当たりません。

私たちは無意識のうちに、これまでの経験や知識、その場の状況、さらには確率的な判断まで総合して、「これはコーヒーカップである」と理解しているのです。

だとすると、認識とは単に見ることではなさそうです。

私たちは見えているものを、そのまま受け取っているのではありません。

さまざまな情報をもとに解釈し、意味づけながら理解しているのです。

同じものを見ても違って見える

ここで別の疑問が生まれます。

もし認識が、さまざまな情報を総合して判断する働きなのだとしたら、同じ条件で同じものを見れば、誰もが同じ認識にたどり着くのでしょうか。

しかし実際には、そうはなりません。

ある絵を見て、「美しい」と思う人もいれば、「不気味だ」と思う人もいます。
同じ映画を見ても、感動する人もいれば、退屈だと思う人もいます。

同じ出来事について語っても、人によって受け取り方は違います。

見ている対象は同じです。大きく環境が違うわけでもありません。
それにもかかわらず、認識は一致しません。

なぜでしょうか。

認識には「見る人」が含まれている

私たちは普段、認識とは対象を知ることだと考えています。

しかし、よく考えると認識には二つのものが含まれています。

認識される対象。
そして認識する私です。

どちらか一方だけでは認識は成立しません。

本を見るためには本が必要です。しかし同時に、それを見る人も必要です。

当たり前のことのようですが、実は重要なことです。

私たちは世界をそのまま見ているのか

ここで一つ考えてみましょう。

もし認識する側が変わったら、世界も同じように変わって見えるのでしょうか。

子どもの頃に読んだ本を、大人になってから読み返した経験はありませんか。

同じ本を読んでいるはずなのに、まったく違う内容のように感じることがあります。

昔は気づかなかった場面に心を動かされたり、逆に、昔は感動した部分がそれほどでもなく感じられたりします。

本は変わっていません。変わったのは読む側です。

認識する側が変わったからこそ、理解される内容も変わったのです。

すると、私たちが対象を理解するときには、対象だけでなく、理解する側も何らかの役割を果たしていることになります。

ここまでの話から考えると、認識とは単に世界を受け取ることではなく、認識する側も関わっている働きだと言えます。

しかし、ここで新たな疑問が現れます。

認識の外側を見ることはできるのか

私たちはここまで、認識とは対象と認識する人との関係によって成り立っているようだ、と考えてきました。

しかし、そもそも私たちは、なぜそのようなことを知っているのでしょうか。

私たちは、自分自身の認識を通してしか、世界を見ることができません。
自分の認識の外側に出て、それを直接確認することはできないはずです。

たとえば魚は水の中で生きています。
魚は水の中から世界を見ることはできますが、水の外に出て水そのものを眺めることはできません。

それと同じように、私たちも認識の中で生きています。

自らの認識を通して世界を理解しています。

しかし、その認識そのものを外側から眺めることはできるのでしょうか。

世界があり、そこにさまざまな物があり、それを私たちが認識している。

私たちは当たり前のようにそう考えています。

しかし、よく考えてみると不思議です。

その構図そのものはどこからやって来たのでしょうか。

私たちが直接知っているのは、自分自身が認識した世界だけのはずだからです。

それにもかかわらず、私たちはまるで認識の外側から世界全体を眺めているかのように、
「世界があり、私がそれを見ている」
と語ります。

それはなぜ可能なのでしょうか。

認識とは何なのだろう

これまで、存在について考えました。
個物について考えました。
私について考えました。
同一性について考えました。

しかし、それらはすべて認識されることによって初めて問題になります。

認識がなければ、存在も、個物も、私も、同一性も、語ることができません。

だからこそ、「認識とは何か」という問いは、これまでのすべての問いの土台にあります。

認識した内容が正しいのかどうかは、ある程度確かめることができます。

コーヒーカップなのか貯金箱なのかは、裏側や底を見ればよいでしょう。
友人かどうかは、近づいて顔を確認すればよいでしょう。

しかし、
「世界があり、物があり、それを私が認識している」
という構図そのものは、どのように確かめればよいのでしょうか。

私たちは認識を使って世界を理解しています。

では、その認識そのものを理解するとき、私たちは何を使っているのでしょうか。

そして、もし私たちが認識の外側に出られないのだとしたら、私たちはどこまで認識そのものを理解できるのでしょうか。

「認識とは何か」という問いは、世界についての問いであるだけではありません。

私たちがどのように世界を理解しているのか、
そして、その理解の仕方そのものをどこまで理解できるのかを問う問いでもあります。

私たちは自らの認識を通して、認識について考えています。

そのこと自体は、いったい何を意味しているのでしょうか。

それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。

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