カフカ『アメリカ』(1927)
『アメリカ』という題名
この作品は、カフカの親友マックス・ブロートによってカフカの遺稿が編纂され、1927年に『アメリカ』という題で出版された。
残された手記から、カフカがこの小説を『失踪者』という題にしようとしていたことが分かっている。カフカは、この物語の結末を、主人公のカール・ロスマンの失踪という形で締めくくろうとしていたのかもしれない。しかし、この小説は、未完で終わっている。1911年から1914年にかけて断続的に書き継がれてきたが、最終的に未完のまま放棄された。
もし仮にこの作品が、完成していれば、結末はどうなっていただろうか。カール・ロスマンは、最後、行方が分からなくなって、誰も彼のその後を知らない。。。という終わり方にはカフカらしさを感じる。しかし、カフカが最後にカールの失踪を想定していたのかどうか、今となっては誰にも分からない。今、われわれの手元に残されているものは、カールが希望を抱きながら、オクラホマに向けて列車の旅を始めた、という最後である。
カフカがどのような最後を想定していたとしても、われわれには、残された作品がすべてだ。それを一つの作品として受け入れるほかない。
この作品をそれ自体で完結したものとして捉えれば、この物語は、新たに再出発を迎えたカールの姿を描いて終わっている。最後がこのような形でで締めくくられているこの小説には、『アメリカ』という題の方がより似つかわしいのではないだろうか。
希望の地としてのアメリカ
ヨーロッパの古い伝統とドイツ式の厳格な官僚機構の下で生活を続けていたカフカにとって、一人の青年が自らの可能性を信じて、自分の未来を切り開いていこうとする舞台には、アメリカという大地が最もふさわしかった。戦争と全体主義の影が忍び寄ってきていた20世紀初頭のヨーロッパに住む人々にとって、アメリカはまだ若く可能性を秘めた国として見えていたはずだ。
この未完の『アメリカ』は、そのような若い新興国を舞台に、一人の若者の放浪を描いている。そして、この物語の最後は、青年の再出発に向けた新たな希望を描いて終わっている。
カフカの作品は、「不条理小説」と呼ばれるように、まったく理不尽で、抗いようのない状況に追いつめられる孤独を主題とするものが多い。しかし、この作品にはそのような悲壮感や絶望感はない。
「孤独の三部作」と呼ばれるカフカの長編作品、『アメリカ』『審判』『城』の中では、『アメリカ』が最も初期に書かれている。そして、主人公の人物造形は、この作品が最も具体的で詳細であり、若く聡明で繊細な青年像が描かれている。『審判』では、主人公の名前は「ヨーゼフ・K」であり、『城』では、ただの「K」となっていて、後の作品ほど匿名性の高い、抽象的な人物像になっているのとは、極めて対照的だ。
物語は、未成年の主人公カールが、故郷を放逐され、一人寄る辺のないアメリカへと旅立つ場面から始まる。カールは、偶然にもアメリカへの船中で出会った叔父や、当てもなく立ち寄ったホテルのコック長の善意に助けられつつも、最後は理不尽な仕打ちで、彼らに裏切られ、再び孤独な旅へと追いやられていく。
一見、理不尽な人間関係に翻弄される若者の孤独を描いた典型的なカフカ的作品にも見える。だが、カールにとって、アメリカは孤独で孤立無援な異邦の地であるとともに、自らの力を試すことのできる自由の場でもあったはずだ。そして、現に新たな希望を抱いた姿を描いてこの作品は終わっている。
この作品には、理不尽な仕打ちの中で孤立無援に戦う若者の「孤独」よりも、そうした状況にもかかわらず、自らの道を切り開こうとする若者の「たくましさ」の方を強く感じる。
独立したひとつの作品として
『アメリカ』という作品には、唐突で不可解な出会いと別れという人間関係の理不尽さや不自然さが幾度となく見られる。だが、人物像は、巧みに作り込まれていて、どの登場人物にも魅力を感じる。魅力的で現実的な人物像と不可解で不自然な人間関係という奇妙な不釣り合いさを感じさせる作品だ。『アメリカ』執筆当時のカフカにとっては、人間関係の方が不条理なものだったのかもしれない。
その後、作風は変わって行き、人間の「生」そのものが不条理なものになっていく。しかし、アメリカには、そこまでの生への悲観的な見方は見られない。人間関係の不条理さに直面しながらも、カールは、新たな生き方を模索し続けている。
『アメリカ』は、カフカの作品の中では、最も物語性に富んだ作品だ。カフカ作品として「不条理小説」「孤独の三部作」という文脈に位置付けて見るのではなく、単独の物語として読まれるべき作品だと思う。ひとつの物語として、執筆の背景や他の作品との関連から独立して読まれたとき、この作品は、青年の寄る辺ない放浪とそのなかでも生き抜こうとする自負の物語として見えてくるのだと思う。