NO IMAGE

毒杯を仰いだ哲学者としての運命 – プラトン『ソクラテスの弁明』(390 BC?)

プラトン『ソクラテスの弁明』(390 BC?)

 私は神によってポリスにくっ付けられた存在なのです。大きくて血統はよいが、その大きさゆえにちょっとノロマで、アブのような存在に目を覚まさせてもらう必要がある馬、そんなこのポリスに、神は私をくっ付けられたのだと思うのです。その私とは、あなた方一人ひとりを目覚めさせ、説得し、非難しながら、一日中どこでもつきまとうのをやめない存在なのです。

 ソクラテスは、自らの思想を伝え、教えるための教壇(学園)というものを持たなかった。アゴラや競技場など、街角で問われるがままに議論した。他のソフィストたちのように、有力者の子弟を取り、高額な金銭を要求するようなこともなく、議論を望むものに対しては、誰であれ、対話を交わしていった。
 そして、後に「無知の知」と呼ばれるソクラテス独特の対話手法によって、議論の相手を論難した。ソクラテスは、相手の矛盾を突き、厳しく論駁していくなかで、相手が知っている、分かっていると思い込んでいるものが実は、全く分かっていないということを浮き彫りにしていった。現代的に言えば、言葉の意味や用法を無自覚に曖昧なまま使っていることを気付かせ、その本来の意味を再度探究させることを相手に促すという手法だ。

 ソクラテスのこのような特異な思考様式と行動は、彼自身をアテナイで一躍有名にし、彼に「知者」という呼び名を与えることになる。

 ソクラテスによって、言葉の意味に対する自らの無自覚さを自覚させられたものは、言葉本来の意味を問うということに知的な驚きを覚えていった。
 ソクラテスは言う。

 では一体なぜ、人々は私と共に喜んで長い時を過ごすのでしょう。あなた方はすでに聞いています、アテナイの皆さん。真実のすべてを私はあなた方に語ったのです。つまり、知恵があると思っているが実際はそうでない人々が吟味されるのを、彼らは喜んでいるのです。実際、それは不快な経験ではありません。

 純粋に知的好奇心に溢れているものにとっては、ソクラテスの議論は、非常に刺激に富んだものであったはずだ。
 だが、ソクラテスの対話に加わったすべてのものが、こうした知的好奇心のみで議論していたわけではない。ソクラテスは、公共の場で相手を問わず議論した。誰に対しても開かれた、いわば、公開の討論だった。ソクラテスによって論難されたものの中には、当然、自らの名誉と体面を汚されたと感じたものも多かった。
 ソクラテスは、「知者」と呼ばれる一方で、「皮肉屋」「空とぼけ(知っているのに知らないふりをする)」といった批判も受けるようになった。同時代人のアリストファネスは、喜劇『雲』で、そのような批判的な評価を基に、人々を惑わす道化としてのソクラテス像を描いている。

 アテナイ市民の間でのソクラテスに対する評価は、二分されていた。しかし、ソクラテス自身は、自分の役割は、「無知の知」を人々に自覚させることにあると固く信じていた。それは、ソクラテス自身の理解では、デルフォイのアポロン神による神託に裏付けられたものであったからだ。
 自らの存在をアブにたとえたように、ポリスという巨大でノロマな馬に対して、常に警鐘を発していくことが、ソクラテスの役割だった。

 だが、ソクラテスのこのような信念は、ソクラテス自身の身を危険に曝していくことになる。

ソクラテス裁判の背景

 前399年、ソクラテスは、保守派の政治家アニュトスによって、不敬神の罪で告発された。この時、ソクラテスは、70歳を迎えていた。
 告訴状は、次のような内容だったと言われている。
 「ソクラテスは、ポリスの信ずる神々を信ぜず、別の新奇な神霊(ダイモーン)のようなものを導入することのゆえに、不正を犯している。また、若者を堕落させることのゆえに、不正を犯している」

 この告訴状の内容に意味はないだろう。ソクラテスが告発された理由は複合的なもので、政治的な背景と文化的な文脈、そして、ソクラテスの個人的資質、といった三つの要因があったと思われる。

 まず、政治的な背景として、ペロポネソス戦争敗戦後のアテナイの政治的混乱がある。前404年に親スパルタの三十人政権が成立したが、この政権はわずか1年で民主派によって打倒された。民主派による政権奪取以降、三十人政権に関わった者たちへの弾圧、迫害が続いた。
 三十人政権の首謀者であるクリティアスは、ソクラテスの下で一時期学んでいる。アテナイ市民からは、ソクラテスの弟子と見做されていた。そのため、ソクラテスへの告発もこの三十人政権関係者への弾圧の一環だったといえる。

 また、文化的な要因としては、ソフィストという新たに登場してきた知的職業に対する保守派からの反発があった。ソフィストとは、討論や説得の技術を教えることを生業とした職業知識人たちであった。民主制が成熟したアテナイには、ギリシア各地からソフィストたちが訪れ、自らの弁論術を売り込んでいった。
 彼らの弁論術を学ぶために、多くの有力者の子弟が大金を支払ったという歴史的事実からは、アテナイの民主制がいかに成熟し、議論による説得を重視していたかが分かる。これは、自らの弁論の力、つまり、実力によって政治を変えることができたということを示している。意欲のある若者は、この弁論術に熱狂した。
 当然、こうした実力主義は、保守派層、既得権益層に危機感を抱かせた。プラトンは、のちの著作である『メノン』の中に、ソクラテスの告訴を行ったアニュトスを登場させ、ソフィストと呼ばれる連中は、どのようなものであれ、国家に対する害悪だと語らせている。ソフィストの弁論術とソクラテスの思想は全く異なるものだったが、彼らのような自らの知恵と知識によって社会に影響力を持つ存在は、保守派層、既得権益層に一様に危険視されていた。ソクラテスに対する告訴状の中の「若者を堕落させる」という言葉には、保守派層のソフィストへの反感と恐れが読み取れる。

 そして、最も重要な要因は、ソクラテス個人の資質だろう。ソクラテスは、アテナイの一般市民からはソフィストの一人と見做されていたが、ソクラテスの活動は、明らかに他のソフィストたちとは異なっていた。
 知識を売るということをせず、弁論の技術を教えることを生業にしていないこと。純粋に対話のための対話を公共という開かれた場で行い、相手の無知を気付かせ、社会を啓蒙することを信条としていること。
 このようなソクラテスの特異な信条と思想は、哲学的な探究心に富んだものたちへ非常な感銘を与え、多くの弟子を生んだ。
 実際、ソクラテスが刑死したのち、ソクラテスを擁護し、その思想を伝えるための多数の著作が現れる。クセノフォン、アイスキネス、パイドン、アンティステネス、アリスティッポス、エウクレイデスなどの支持者たちが、ソクラテスを主人公とした対話形式の作品群を残した。 ソクラテスの思想が当時においてもいかに特異なものであったのかが分かる。
 そして、こうした「ソクラテス文学」の最高峰に位置しているのがプラトンである。

プラトンの描くソクラテス

 プラトンが『ソクラテスの弁明』で描いたように、ソクラテスは、死を恐れず、魂にのみ配慮すべきことを滔々と説く。そして、最期は、判決に従い、従容として死についた。

 『ソクラテスの弁明』は、プラトンの初期対話篇に位置付けられる作品だ。書かれた正確な年代は不明だが、プラトンの信条や思想の発展形式を考えると、プラトンが一番最初に書いた作品なのではないかという気がする。

 プラトンの初期対話編は、相手の矛盾と思考の不徹底さを鋭く抉り出すソクラテスの対話の手法が多く主題とされている。この『ソクラテスの弁明』においても「若者を堕落させる」という告発に対して、それが論理的に成立しないことを鮮やかに証明して見せるソクラテスの姿が描かれている。

 プラトンは、この作品でソクラテスの対話の手法を描く一方、その他の部分では、ソクラテスの「知」に対する態度を多く取り上げている。ポリスという社会と個人の魂に対して誠実に生きることを説いた人格者としてのソクラテスに主に焦点を当てているのだ。ソクラテスの思想や哲学を伝える前に、まずは人としてのソクラテスを伝えようと、プラトンは意図していたように思える。その意味で『ソクラテスの弁明』は、ソクラテスの思想や哲学の革新性以前に、人格者としてのソクラテスが、弟子のプラトンにとって、極めて特異で、重視するべきものとして映っていたことを示している作品だといえるだろう。

 著作を一切残さなかったソクラテスの思想は、プラトンによる「ソクラテス文学」によって後世へと伝えられていった。まず初めに自己の魂に向き合う人格者としてのソクラテスを取り上げ、彼を刑死へと追いやり、知的文化を失わせたアテナイ民主制へ警鐘を鳴らしたプラトンは、そこからソクラテスの口を借りて失われた知的遺産を取り戻すことを企てたように思える。そして、この試みこそが、西洋哲学の基礎へと発展していくことになるのだ。