「日常」という負担 – カフカ『審判』(1925)

判決

カフカ『審判』(1925)

「日常」という目に見えない負担

 Kにとって訴訟とは何だったのだろう?
 この訴訟には、終わりも見えなければ、進展も見えない。それでいて、生きている以上、ずっとつきまとって離れないものだ。ただ重い負担となって、ずっとKにのしかかっている。

 Kの生活は、訴訟を中心にして回っている。すでに「日常」の一部となっている。訴訟自体がすでに日常なのだ。だからこそ、訴訟は、先が見えず、何の進展もなく、そして終わりがない―――

 将来がまだ、はっきりと見定まっていない青年期に、「日常」というものが、自分に付きまとう重い負担のように感じられる時がある。

 誰もが、普段の生活を送るために働き、そして、自分の人生を営んでいく。それが「日常」というものだろう。だが、そうした当たり前の生活を、受け入れられずに、つまずいてしまう。
 特に、現実感覚に乏しく、夢見がちな青年にとっては、こうした感覚は、時に致命的なほど強く現れる。そうした若者にとっては、生きるために働くことが、生きることそのものを制限しているかのように感じられる。

 自分はもっと別の生き方ができるのではないのか?
 生活の糧を得るための仕事が、自分の生き方を縛り付け制限しているのではないか?

 「日常を送る」というごく当たり前の行いが、重い負担のように思える。。。

 Kに突然、降って湧いた訴訟は、青年期に普遍的なこうした心理を表現したもののように見える。訴訟は、Kにとって生きていく上でのしかかる「日常」そのものだったのだろう。

 しかし、Kにとっての訴訟、つまり日常は、その意味を徐々に逸脱させていく。
 7章にこんな一節がある。

 仕事とは、訴訟と連絡を保ちながらKにくっついてまわる一種の拷問、裁判所承認ずみの拷問ではないのか?Kのこのような特殊な立場を、理解してくれるものが銀行にいるだろうか?

 ここでは、仕事、すなわち、「日常」が、「訴訟」と共に、Kを苦しめ、生活を乱す障害と意識されているのだ。「訴訟」に集中して取り掛かりたいのにもかかわらず、仕事、つまり「日常」がそれに対して邪魔をする。訴訟は日常を超えて生活を脅かすものへと徐々に膨らんでいく。

 訴訟は、「日常」という生活に対する漠然とした不安や負担といったものではなく、具体的な「罰」を伴って現われている(たとえば、職場の物置部屋に突如として現れる鞭打ち人、ブロック商人を叱責する弁護士)。日常の様々な場面で、突然に姿を現しては、Kの心理に重くのしかかる(審理に向かった先の部屋の近くで偶然見つける「裁判所事務局入り口」、突然訪ねてくる叔父のカールの存在)。後半に行くにしたがって、Kにとっての訴訟は、その罰への意識が色濃くなってゆく(教誨師が説く裁判の意味)。そして、最後には、Kに審判を下し、突如として死に追いやるのだ。

 「訴訟」という日常への不安は、徐々に罰を伴ったものへと変質していき、Kの精神と生活を不安定なものへと追いやっていく。

 では、Kにとっての訴訟とは何だったのか?

Kにとっての「訴訟」

 訴訟とは、普通であれば誰であれ、関わりたくはないものだ。ただ生活にとっての障害でしかない。さまざまな負担を強いられ、自分の行動は様々な面で制限されていく。
 だが、日常そのものを負担と感じる者にとっては、生活自体が「生」を制限する訴訟のようなものとして映ってしまう。人は、人生の中の一時であれ、生活を訴訟のように感じてしまうことがある。しかし、それでもその負担を背負って普通は生きていくのだ。

 だが、Kには、それは克服しえない罰を伴ってのしかかってきた。
 Kにとっては、「日常」だけでなく、自分自らが抱く「夢」もまた「訴訟」だったのではないだろうか。Kをカフカ自身の投影として見たら、それは、作家として大成するという「夢」だ。「日常」と共に「夢」という自負もまたカフカの生活に終生付きまとって離れない重荷だった。

 「訴訟」という言葉は、非常に否定的な響きを持つ言葉だ。対して、「夢」という言葉には、明るい肯定的な響きがある。退屈な「日常」を打ち破るだけの強い響きだ。多くの人が、日常を乗り越えたくて「夢」を抱く。
 しかし、Kにとっては、「夢」こそが、「日常」以上に、生きていく上での重たい負担だったのかもしれない。

 自ら選び取り、自分の人生の大半をそのために費やし、自分の生涯をかけたもの。しかし、そうであるがゆえに、それに拘泥し、自らの人生を歪めている。
 自分の人生を賭するだけの価値があるにもかかわらず、それは決して自分の人生を豊かにするものでも、充実を与えるものでもない。それに拘泥している分だけ、余計に自分の人生に付きまとう大きな負担になっている。

 そして、最後にそれは、Kの人生に「審判」を下すのだ。「死」という審判を。

 訴訟は、「日常」という漠然とした不安として読み込んでいくこともできると思う。その方が普遍性があるだろう。
 しかし、最後に明確な形で「審判」を伴って現れてくる点を考えると、もっと具体的な対象だったのではないか。
 それは、Kにとっての夢だったように思える。

 さて。自分にとっての「訴訟」は一体何だろうか?