「ある」という驚き
みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第十三回です。
前回、私たちは、「ある」とは何かという問いを考えました。
そこで見たのは、「ある」という一つの言葉には実は複数の意味が含まれており、何を真に存在するもの、つまり実体と考えるかによって、世界の見方そのものが変わるということでした。
今回は、その続きを考えていきます。
私たちが確実だと思うもの
現代に生きる私たちは、「確実に存在するもの」と聞かれれば、多くの場合、二つのものを思い浮かべるのではないでしょうか。
一つは、物質、つまり物理的な対象です。
机や山、星、人間の身体など、観測でき、感覚によって捉えられるものです。科学は、このような物理的対象を観測し、その性質を明らかにしてきました。
もう一つは、自分自身の意識です。
たとえ外の世界が幻だったとしても、「今、自分が何かを感じ、考えている」という事実そのものは疑うことができません。
物質と意識。この二つが、現代人にとって最も確実な存在だと考える人は少なくないでしょう。
しかし、哲学は古代から、この二つだけで議論を終わらせませんでした。
「概念」や「論理」もまた存在するのではないか、と問い続けてきたのです。
この問いは存在論の中心的なテーマの一つであり、今日に至るまで哲学者の間で統一した答えはありません。
代表的な考え方を以下に見ていきましょう。
第一の立場──概念は実在する
一つ目は、概念や数学的対象は、人間とは独立して実在すると考える立場です。
この考えでは、
- 数字
- 三角形
- 円
- 集合
- 論理法則
などは、人間が発明したものではなく、人間が発見したものだと考えます。
例えば、「2 + 2 = 4」という事実は、人間が決めた規則ではありません。たとえ人類が存在しなくても、この真理そのものは変わらないと考えます。
数学的な概念や論理は、人間とは独立に存在するものだと考えます。
数学者の中には、「数学は発明ではなく発見である」と語る人もいます。この感覚は、この立場をよく表しています。
つまり、数字は机のように目に見えるわけではありませんが、それでも客観的に存在しているという考え方です。
第二の立場──概念は人間が作ったもの
これとは反対に、概念は人間が世界を整理するために作り出したものだと考える立場もあります。
実際に存在するのは、一匹一匹の犬だけです。
「犬そのもの」という存在はありません。
同じように、世界には三角形の形をした物体は存在しても、完全な「三角形」そのものは存在しません。
「1」や「2」といった数字もまた、私たちが数量を扱いやすくするために作り出した道具にすぎない、と考えます。
この立場では、「犬」「三角形」「数字」といった概念は、人間が世界を把握するために作り出した認識のための道具であって、それ自体が世界のどこかに存在しているわけではありません。
つまり、存在するのは個々の具体的な対象だけだという考え方です。
第三の立場──存在にはさまざまな様式がある
現代哲学では、この二つを単純に対立させるだけでは十分ではないという考え方も多く見られます。
それは、「存在する」という言葉には一種類しか意味がない、という前提そのものを見直そうとする立場です。
例えば、物質としての鉛筆は空間の中に存在しています。
一方で、数字の「2」は空間のどこにもありません。世界中のどこを探しても、「2」が落ちている場所は見つかりません。
しかし、だからといって「2」は単なる幻想とも言えません。
数学では誰もが同じ「2」を扱い、その性質について客観的に議論できます。
このように考えるなら、鉛筆も数字も、どちらも「ある」のですが、その存在の仕方は異なるということになります。
物質は空間や時間の中に存在します。
一方で、数学的対象や論理法則は、空間の中ではなく、抽象的な対象として存在する。
つまり、「存在」は一つではなく、そのあり方には複数の様式があるという考え方です。
「ある」は一つの意味ではない
ここまでの議論から見えてくるのは、「存在する」という言葉は、思っているほど単純ではないということです。
私たちは普段、「ある」という一つの言葉で、
- 物質がある
- 心がある
- 数字がある
- 法律がある
- 国家がある
- 約束がある
- 物語の登場人物がいる
と、さまざまなものについて語っています。
しかし、それらはすべて同じ意味で「ある」と言えるのでしょうか。
机と数字では存在の仕方が違います。
数字と法律も違います。
法律と小説の主人公も違います。
もしこれらをすべて同じ意味で「存在する」と言うなら、「存在」という言葉はあまりにも曖昧になってしまいます。
逆に、それぞれが異なる意味で存在すると考えるなら、「存在する」とは一つの概念ではなく、複数のあり方を含む言葉だということになります。
「ある」ということへの驚き
ここで、根本的な疑問に立ち返ってみましょう。
そもそも、哲学はなぜ、これほどまでに「存在とは何か」を問い続けてきたのでしょうか。
それは、世界が「ある」ということそのものが、私たちにとって最も驚くべきことがらだからです。
存在そのものが、実は、最も驚異的な事実なのです。
私たちは、この世界に存在するものがどのように成り立っているのか、どのような性質を持っているのかについて、さまざまな説明を与えることができます。
現代であれば、科学が物質の成り立ちを説明します。
古代であれば、神話や民話が世界の起源を語りました。
しかし、それらが説明しているのは、「何がどのようにして成り立ったのか」ということであって、「なぜ世界そのものが存在するのか」ではありません。
そもそも、いまここに世界が「ある」という事実そのものを説明することはできるのでしょうか。
あらゆる説明は、すでに何かが存在していることを前提として、その成り立ちや性質を説明しています。
言い換えれば、どのような説明も「今ここに何かがある」という事実から出発しなければなりません。
だとすれば、「存在している」という事実そのものは、あらゆる説明の前提となっています。そして、そのこと自体は、説明の外側に残り続けることになります。
「ある」という事実そのものは、決して説明しきれないことがらなのです。
哲学は、そうした事実に気づくことから始まります。
だからこそ哲学は、存在について、世界の起源や成り立ちを説明するのではなく、「ある」とはそもそも何なのかを問い続けてきたのです。
それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。




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