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哲学はなぜ危険なのか?“病としての哲学” ― 中島義道『哲学の教科書』

哲学談戯

今日の一冊
中島義道『哲学の教科書』講談社学術文庫 (2001)

「哲学する」こと

 「哲学」とは、一般に理解されるような教養や立派な学問ではなく、もっと「病気に近いもの」であり、凶暴性や反社会性を孕んだ切実な営みだ──

 著者の中島義道氏は、そう言う。

 哲学をなにか教養のように解説している記事や動画を見ると、確かに、強い違和感を感じる。哲学とは、もっと病的な感覚だ。むしろ病的な感覚があるからこそ、哲学を問わざるをえなくなる──そういうものだと思う。

 なので、哲学を問わなくてすむ世の中の圧倒的大多数の人は、幸運なのだ。余計な疑問を抱かずに生きていけるのだから。

 では、ここで、ビョーキになってしまった人のために、「哲学する」とは、どういうことなのか、本書の内容に沿って紹介したい。

哲学とはなにか?

1. 哲学の本質──哲学とは、学識ではなく「躓き」

  • 「品行方正」への拒絶: 哲学は無害な入門書が語るような立派なものではなく、「人を殺してなぜ悪いか」「私は結局死んでしまう」といった問いに徹底的に苦しめられ、考え抜く修羅場のようなものだ。
  • 学識との違い: 「哲学的である」ことは、知識や教養があったりすることではない。存在、自我、時間といった問題に、単に触れるのではなく「決定的に躓く」ことこそが哲学の本質。
  • 自分自身になること: 哲学の目標は社会に役立つ人間になることではなく、ニーチェが説いたように「自分自身になる」ことにある。

2. 「子供の目」による徹底的懐疑

  • 日常への違和感: 哲学とは、大人が見過ごしてしまうような「空はなぜ青いのか」というような子供のような単純な感性で、世界に対する途方もない違和感を抱え続けること。
  • 当たり前を疑う: 倫理学を例にとれば、一般的な道徳が前提としていることを前提から疑い、「死はなぜ悪いのか」「生きることはなぜよいのか」といった根本的な問いを投げかけること。そして「よい」や「悪い」という言葉の意味そのものを徹底的に問い直すこと。

3. 「思想」や「科学」との対比

  • 思想との違い: 「思想」が他人の思索を客観的・歴史的に理解しようとする「健康的」な態度であるのに対し、「哲学」はニーチェが狂気に追いやられたような「不気味な見え姿」に感染し、めまいを起こすような個人的な経験である。
  • 科学の限界: 科学は統計的・生物学的に「死」を語ることはできますが、「この私が死ぬ」という個別の切実な意味に答えることはできない。「今・ここ・私」という自明な知識の根拠を問い始めるところに哲学が始まる。
  • 普遍性への信念: 哲学は、徹底的な懐疑の先に、誰にとっても共通する「岩盤のような普遍的な問い」があるという強い信念に基づいている。そのため、特定の文化にのみ妥当性を認める「文化相対論」は、哲学の死を意味する。

4. 哲学の運命──終わりのない問い

  • 答えのない営み: 哲学的な問い(自我、時間、存在など)に対して、人類は紀元前から一歩も進んでいない。
  • 実感と論証: 哲学は精確な論理を用いながらも、最終的には個人の実感に訴えかけ、腹の底から納得させる強度を必要とする。
  • 永遠の反復: 哲学には最終的な決着をつける基準がなく、人類の歴史が終わるまで「自我とは何か」と繰り返し問い続けることこそがわれわれの運命である。

結論

 中島氏は、哲学を単なる「学説の歴史(哲学史)」として提示するのではなく、読者を哲学的な問題そのものへと誘い込み、悪戦苦闘を共有させることを狙いとして本書を書いている。それは、「知識として体系化された哲学」「輸入学問としての哲学」への批判でもある。

それでも哲学する人へ

 どうだろうか。哲学するということは、こういったいくら考えても意味のないことをひたすら考えているのだ。それがなんの役に立つかも分からないのに。

 もし、あなたが、それでも哲学はなにかの役に立つと考えているのだとしたら、それは哲学をしているのではなく、なにか別の学問をしているのだ──中島義道風に言うとこうなるだろうか。

 さて。本書を読んで、哲学をやってみたいと思った人はいるだろうか?

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