哲学とは何か
みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第十一回です。
これまで、「存在」「自己」「認識」「他者」「言葉」といった問題を通して、哲学を論じてきました。
しかし、私たちは、まだ一番肝心なことを論じていません。
そうです、「哲学とは何か」という問題です。
哲学は、学問として見ると、非常に捉えどころのない分野です。それは、その研究の対象がはっきりとしないからです。
物理学なら、物質の法則を、歴史なら人類の歩んできた道を、経済学なら市場の働きを研究の対象とします。
しかし、哲学にはそうした明確な対象がありません。
哲学という言葉は、英語の philosophy という言葉の訳語で、もともと「知を愛する」という意味です。しかし、それは、「学ぶことが好きだ」と言っているのと同じで、具体的に何の学問なのかを何も説明していません。
哲学とは、一体どのような営みなのでしょうか。
「哲学」という言葉の使われ方
哲学という言葉は、「人生哲学」や「経営哲学」のように、「〜の哲学」という形で使われることがあります。この場合の「哲学」は、その人や組織がもつ価値観や人生観、あるいは行動の指針を意味しています。
このような使い方は、日本語だけでなく英語でも一般的です。そこには、「人それぞれ異なる物の見方や価値観がある」という相対的な考え方が含まれています。つまり、人にはそれぞれ異なる哲学があって当然だ、という考えです。
もちろん、人にはさまざまな価値観があります。それ自体は否定できません。
しかし、哲学は相対的なものの見方にとどまるものではありません。
たとえば、「すべての価値観は等しく正しい」という立場を主張するのであれば、その主張そのものは、誰に対しても通用する理由によって説明しなければなりません。
逆に、「普遍的な真理は存在する」と主張する場合にも、同じように全ての人に通用する根拠が求められます。
つまり、哲学では、どのような立場を採るのであっても、その立場を支える根拠を普遍的に論じることが求められます。
哲学が扱うのは、それぞれの価値観や主張ではなく、その背後にある「普遍的な問い」なのです。
これは、多様な価値観を認めないとか、相対的な視点を無視するという意味ではありません。たとえ、それを認めたとしても、それを認める根拠そのものは、普遍的に通用する形で論じなければならないということです。
普遍的に問うこと
では、なぜ哲学は普遍的なものとして論じなければならないのでしょうか。
それは、哲学が人間の知性の根源を問い続ける営みだからです。
もし、「人それぞれ考え方が違う」「意見の相違」と結論づけてしまえば、そこで思考は止まってしまいます。そして、思考が止まるということは、対話も止まるということです。
どのような議論であっても、「人それぞれだから」という一言で終わってしまえば、それ以上、互いの考えを検討する必要はなくなってしまいます。相手を説得することも、自分の考えを見直すこともできません。
だからこそ、哲学は、多様な意見や価値観を認める場合であっても、「なぜそれらを認めるべきなのか」という考え方そのものを、誰もが検討できる普遍的な根拠に基づいて論じようとします。
そして、「普遍的に問う」ということは、誰に対しても開かれているということです。
このような普遍的な根拠への問いかけが失われれば、「これは私の考えだから正しい」「私はこう信じる」という主張と、「権力者がそう決めた」「伝統だから従え」という主張との間に、本質的な違いを示せなくなります。独裁や独善もまた、一つの考え方として片づけられてしまうからです。
普遍的な根拠を問い続けることは、多様な意見を否定するためではありません。むしろ、異なる立場同士が対話を続け、お互いの主張を理由によって検討できるようにするためです。
つまり、普遍的なものへの問いかけこそが、私たちの思考の自由と他者との対話を支える土台となっているのです。
「問い」を見つけること
では、最初の問いに戻りましょう。
哲学とは、一体何をする営みなのでしょうか。
私たちは、これまで10回にわたって、さまざまな哲学的な問いを考えてきました。
そこで現れた「哲学的な問い」とは、私たちが日常で当たり前だと思っていて、疑問にすら感じていないこと、それを改めて考え直す試みでした。
私たちは、目の前にあるものが「一つの存在」としてあることを当然だと思っています。その存在を名前で呼ぶことに何の疑問も感じていません。
他者が存在すること、言葉が意味を持つこと、私たちが自由に思考できること、すべて私たちにとって当たり前の事実であって、そもそも問う必要性のないものです。
もし、それを全く問わなかったとしても、私たちの日常は何も変わりなく過ぎていくことでしょう。
しかし、哲学は、その「当たり前」をそのまま受け入れません。
なぜ存在するのか。なぜ言葉は意味をもつのか。なぜ他者を理解できると思うのか。
つまり、哲学とは、問いを発見する営みなのです。
誰もが当たり前に思い、疑問にすら感じていないことに疑いを向け、そこに「問い」を発見すること。
思考の出発点となる「問い」そのものを掘り起こすこと。
そして、一度その「問い」を発見したら、その問いについて知性の及ぶ限りまで問い続けること。
安易に答えを求めるのではなく、理由を問い、前提を問い、さらにその前提を問い続ける。その終わりのない探究こそが哲学です。
そして、「哲学的な問い」とは、普遍的な形で開かれたものでなくてはなりません。でなければ、その問いを他者へと投げかける必要性がなくなってしまうからです。
個人的な問いや疑問は、どれほど深遠なものでも些細なものでも、その人個人のものでしかありません。その問いに関心や共感を示してくれる人はいるかも知れませんが、「他者」へと問いかける問いではなくなってしまいます。
哲学が目指すのは、個人の経験を超えて、「私たちはなぜそう考えるのか」「人間である以上、誰もが向き合わざるを得ない問題は何か」を問い続けることなのです。
「哲学する」こと
ここでもう一つ重要なことがあります。
「哲学する」ということは、哲学史を学ぶこととは違うということです。
もちろん、学説や歴史上の思想を学ぶことには、大きな価値があります。
著名な哲学者たちは、それぞれの時代に普遍的な問いと向き合い、その答えを探究してきました。その思索の軌跡を知ることは、知的にも魅力的であり、自らの哲学的な問いを見つけ、それを深めていくための大きな助けにもなります。
しかし、それでもなお、「哲学する」ということと「哲学を学ぶ」ということは、根本的に異なります。
哲学とは、知識を身につけることではなく、自ら問い、考えることだからです。
その意味では、哲学は必ずしも学問という枠組みの中だけにあるものではないのかもしれません。
当たり前だと思っていたことの中に問いを見つけ、その問いを誰もが考えられる普遍的な形で問い続けること。それは、専門家だけではなく、誰もが日常の中で実践できる営みです。
そして、普遍的に問うためには、自分の立場や価値観にとどまるのではなく、それらを支えている思考の前提までさかのぼって問い直さなければなりません。それこそが、哲学が行っていることなのです。
私たちは、何かを考え、それを他者に伝えようとします。しかし、その考えが自由で開かれたものであるためには、「なぜそう考えるのか」という理由を、誰もが検討できる形で示さなければなりません。
だからこそ、哲学は必要なのです。
それは、私たちが自由に考え、自由に対話するための土台となる営みなのです。
それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。




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