個物とは何か
みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第二回です。
前回は「名前と存在」というテーマでお話ししました。
私たちは普段、目の前にあるものを名前によって理解しています。しかし、実際に存在しているのは名前ではなく、一つひとつの個別の存在でした。
今回は、その続きです。
そもそも私たちは、なぜ目の前にあるものを「一つのもの」として認識しているのでしょうか。
今回のテーマは「個物とは何か」です。
少し難しそうな問いですが、実は机やペンを見たときに誰もが無意識に行っている認識に関わる問題です。
私たちは世界を「もの」に分けて見ている
今、部屋の中を見回してみてください。
机があります。
椅子があります。
本があります。
ペンがあります。
私たちは当たり前のように、それらを別々の物体として認識しています。
そこに一つの机があり、一冊の本があり、一本のペンがある。
何の疑問も感じません。
しかし、少し立ち止まって考えてみると、不思議なことに気づきます。
なぜ私たちは、それらを「一つのもの」として認識しているのでしょうか。
どこまでが一つの机なのか
たとえば机を考えてみましょう。
目の前にある机は、一つの個体として存在しているように見えます。
しかし本当にそうでしょうか。
もし机の角が少し欠けたら、その机は机ではなくなるのでしょうか。
おそらく誰もそうは考えません。
では、脚が一本外れたらどうでしょう。
天板が割れたらどうでしょうか。
半分に切断されたら…
さらに細かく分解して、脚が四本、天板が一枚…
という状態になったらどうでしょうか。
そこには机が存在しているのでしょうか。
それとも存在していないのでしょうか。
明確な境界を示すことは意外に難しいものです。
私たちは普段、机を一つの物体として扱っています。
しかし、どの状態までを一つの机と呼ぶのかは、それほど自明ではありません。
部分もまた一つのものではないか
さらに考えてみましょう。
机を構成している脚や天板は何でしょうか。
それらは机の一部です。
しかし同時に、それ自体が一つの物体でもあります。
木製の脚は木材として存在しています。
金属製の脚なら金属部品として存在しています。
つまり、
机という個体があり、
その内部に脚という個体があり、
さらにその内部に分子や原子という個体がある。
世界は入れ子構造になっています。
どこからどこまでを「一つのもの」と考えるべきなのかは、それほど簡単ではありません。
水や空気はどうだろう
机のような人工物だけではありません。
水や空気について考えてみましょう。
コップに入った水は一つのまとまりのように見えます。
しかし、その水を別の容器に移したらどうでしょう。
川に流したら…
海に注いだら…
どこまでが「その水」なのでしょうか。
空気も同じです。
私たちは空気が存在することを知っています。
しかし、どこからどこまでが一つの空気なのでしょうか。
明確な境界はありません。
それにもかかわらず、私たちは世界をさまざまな「もの」に区切って理解しています。
個物はどこにあるのか
ここには、私たちが普段「もの」を理解するときの不思議さが隠れています。この不思議さに気づくことは、哲学を始めるうえで非常に大切なことです。
この不思議さの中にこそ、哲学的な問いがあるからです。
では、この問題をもう一歩深く考えてみましょう。
私たちが認識している「個物」とは、そもそも世界の側に存在しているのでしょうか。
それとも、人間が作り出しているのでしょうか。
言い換えれば、「一つのもの」であることは、その対象自身が持つ性質なのでしょうか。
それとも、人間の認識の仕方によって生まれているのでしょうか。
この問いに対して、あなたはどう答えるでしょうか。
おそらく大きく二つの考え方に分かれるのではないかと思います。
本質主義という考え方
一つ目は物自体に「個」としての性質がある、すなわち、「個」としての本質が備わっているという考えです。これを今、仮に本質主義と呼びましょう。
本質主義は、「ものには、そのものをそのものたらしめる本質がある」と考えます。
机には机としての本質があり、
木には木としての本質があり、
人間には人間としての本質がある。
私たちが個物を認識できるのは、その対象が本来持っている性質によるのだと考える立場です。
この考え方に立てば、世界はもともと一定の構造を持っており、人間はそれを発見しているにすぎないことになります。
個物は人間が作り出したものではなく、世界の側に実在しているのです。
構成主義という考え方
これに対して、個物は人間が作り出した区分にすぎないと考えることもできるでしょう。
世界の中に最初から「机」や「ペン」が存在しているわけではありません。
人間が認識しやすいように世界を区切り、分類し、意味づけることで、はじめて「机」や「ペン」という個物が成立するのです。
たとえば目の前の机を見たとき、私たちは天板や脚やネジをまとめて一つの机として認識しています。
しかし、それは自然そのものがそうなっているからではなく、人間の認識能力がそう構成しているからだと考えます。
この考えを本質主義に対して、構成主義と呼んでおきましょう。
世界には無数の物体が存在しています。
その中から何を一つのものとして切り出すかは、人間の側の働きによるというわけです。
森の例から考える
本質主義と構成主義の違いを理解するために、もう一つ例を考えてみましょう。
ここでは「森」を取り上げます。
私たちは山を見て、「あそこに森がある」と言います。
しかし、よく考えてみると、「森」というものが地面の上に一つの物体として存在しているわけではありません。
実際に存在しているのは、一つひとつの木です。
その木々がある程度まとまって生えているとき、私たちはそれを「森」と呼んでいます。
では、木が何本あれば森になるのでしょうか。
十本でしょうか。百本でしょうか。千本でしょうか。
明確な境界を示すことはできません。
それにもかかわらず、私たちは木々の集まりを一つのまとまりとして捉え、「森」という存在を認識しています。
もちろん、木そのものは実在しています。
しかし、「森」というまとまりは、人間が木々の集まりを一つの単位として把握することによって成立しているようにも見えます。
構成主義は、私たちが普段「個物」と呼んでいるものについても、これに近い見方をします。
つまり、「個物」という区分は世界の側に最初から存在しているのではなく、人間の認識によって成立しているのではないか、と考えるのです。
しかし、ここで一つ疑問が生まれます。
もし森という区分が人間の認識によるものだとしても、すべての区分が同じように人間によって作られているのでしょうか。
たとえば一本の木を考えてみましょう。
木は葉や枝、幹や根からできています。
さらに、それぞれの部分は細胞からできており、細胞は分子から、分子は原子からできています。
では、原子をさらに分解し、最終的な粒子にまでたどり着いたとしましょう。
もし、その粒子が物理的にこれ以上分割できない存在だとしたら、それもまた人間が恣意的に作った区分だと言えるのでしょうか。
それとも、その粒子には人間の認識とは無関係に、自然そのものに備わった区分が存在しているのでしょうか。
もし後者だとすれば、少なくとも世界の中には、人間が作り出したのではない区分が存在することになります。
すると、「個物とは何か」という問いは、単純に構成主義だけでは説明できない問題を含んでいることになります。
私たちは世界を切り分けながら生きている
前回、「名前は存在を一般化する」とお話ししました。
今回見てきたのは、そのさらに手前にある問題です。
私たちは名前を付ける以前に、世界をさまざまな「もの」として捉えます。
机、椅子、本、人間、犬、山、川。
しかし、その「もの」としてのあり方が世界の側に最初から存在しているのか、それとも私たちが作り出しているのかは、決して自明な問題ではありません。
私たちは当たり前のように個物を認識しています。
けれども、「一つのもの」とは何かと問われた瞬間、その当たり前は揺らぎ始めます。
世界は思ったより単純ではない
私たちは普段、
「ここに机がある」
「ここに本がある」
と何の疑問もなく考えています。
しかし哲学は、そこで立ち止まります。
本当にそこにあるのは机なのでしょうか。
それとも木材や金属の集合なのでしょうか。
本当にそこにあるのは一つの物体なのでしょうか。
それとも私たちがそう見ているだけなのでしょうか。
世界は私たちが思っているよりも複雑です。
「個物とは何か」という問いは、当たり前のものとして捉えていた何気ない日常のものを、改めて問い直す試みなのです。
それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。




コメント