ことばを巡る謎
人は、なぜこれほどまでに容易にことばを話せるようになるのだろうか。そして、人は、なぜことばをこれほどまでに自由に使い、無限とも思えるほど創造的な表現を生み出すことができるのか。
これは、あまりにも自明なことを問いかけているように見える。しかし、そのために、かえって多くの人々にとって「問い」として意識されることがなかった。
言語学者ノーム・チョムスキーは、まさにこの「自明さ」にこそ着目した。すなわち、誰もが日常的に言葉を操っているという、あまりにも当たり前の事実こそが、本来は説明されるべき驚くべき現象ではないかと考えたのだ。この視点の転換が、従来の言語観を根底から揺さぶる契機となった。
彼は、「プラトンの問題」と「デカルトの問題」という二つの問いを提示した。前者は、人間が限られた経験から、いかにして豊かな知識を獲得できるのかを問うものであり、後者は、その知識をもとに、いかにして無限の創造的表現が可能になるのかを問うものである。
これらの問題は、言語理論の枠を超え、人間の知識や認識能力がどのように成立するのかという、認知科学の核心に直結していた。実際、この問題意識は1950年代の認知革命を理論的に牽引する一因ともなった。
名前の由来は、それぞれ古代ギリシャの哲学者プラトンと17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトにあるが、チョムスキーは両者を自らの理論的枠組みの中で大胆に再定式化し、現代の言語学・認知科学に新たな地平を開いた。
ここでは、この「プラトンの問題」と「デカルトの問題」という二つの視点を手がかりに、人間の言語能力と認識能力の特質について、チョムスキーの理論に即して整理していこう。
1. プラトンの問題──「知識が多すぎる」という謎
人間は、限られた経験しか持たないにもかかわらず、なぜこれほど豊かな知識を獲得できるのか?
この問題は、とりわけ子どもの言語習得の際に顕著に現れる。
子どもは、言語に関する正しい用法を習うことで覚えるのではなく、周りの環境から自然に身に着けていく。子どもが受け取る言語知識は、体系的なものでも、理論的なものでもない。それは、断片的で不完全なものだ。それにもかかわらず、音韻的、文法的、語用的な正しさを理解している。さらには、それを正しく運用し、無限に新たな文を生成する能力を自然に身につける。
この事実は、経験だけでは説明しきれない知識の豊かさを示している。
ノーム・チョムスキーは、この問題を「刺激の貧困(poverty of the stimulus)」として定式化し、その解答として生得主義的な立場を提示した。人間はあらかじめ言語に関する基本的な構造を内在的に備えていて、経験はその潜在的能力を引き出す契機にすぎないというのだ。この内在的構造は「普遍文法」と呼ばれ、人間が言語を習得する際の枠組みをあらかじめ規定しているとされる。
この発想の哲学的起源を、チョムスキーは、古代ギリシアの哲学者であるプラトンの「想起説」に見出している。
想起説は、プラトンの対話篇『メノン』の中で最もよく説明されている。
メノンはソクラテスに対し、知識の習得に関して、常識的な理解を揺さぶる問いを投げかける。
メノン おや、ソクラテス、いったいあなたは、それが何であるかがあなたにぜんぜんわかっていないとしたら、どうやってそれを探求するおつもりですか?というのは、あなたが知らないもののなかで、どのようなものとしてそれを目標に立てたうえで、探求なさろうというのですか?あるいは、幸いにしてあなたがそれをさぐり当てたとしても、それだということがどうしてあなたにわかるのでしょうか──もともとあなたはそれを知らなかったはずなのに。
プラトン『メノン』岩波文庫 pp.45-46
ソクラテス わかったよ、メノン、君がどんなことを言おうとしているのかが。君のもち出したその議論が、どのように論争家ごのみの議論であるかということに気づいているかね?いわく、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」──。
「まったく知らないものを、いったいどのように探求できるのか。何を探しているのかも分からないのに、それを見つけたとどうして判断できるのか」という問題だ。
この問いの論理構造を整理すると、次のようになる。すでに知っているものについては、あえて探す必要がない。一方で、まったく知らないものについては、そもそも何を探せばよいのか分からない以上、探求そのものが成立しない。したがって、探求という営みは原理的に不可能になってしまう。
この逆説は、「メノンのパラドックス」と呼ばれている。
この短いやり取りが重要なのは、単なる詭弁ではなく、「経験だけでは知識の成立を十分に説明できないのではないか」という根源的な疑問を提示している点にある。すなわち、人間が獲得する知識が、与えられた経験や情報量を明らかに超えているとすれば、その過剰性はいかにして説明されるのか、という問いだ。
このパラドックスに対して、ソクラテスは直後に一つの大胆な解答を提示する。それが「学習とは想起(アナムネーシス)である」という答えだ。
人は新たに知識を獲得するのではなく、もともと内在していた知識を思い出しているにすぎない、という。この主張を具体的に示すために、ソクラテスは有名な実験を行う。幾何学をまったく学んだことのない奴隷の少年に対し、問いかけだけを通じて問題を解かせ、最終的に正答へと導くのである。
この過程は、外部から知識を与えられなくとも、適切な問いによって内在的な理解が引き出されうることを示す証拠として提示される。
こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気をもち、探求に憎むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと──このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが──その想起がきっかけとなって、おのずから他のすべてのものを発見するということも、充分にありうるのだ。
プラトン『メノン』岩波文庫 pp.47-48
チョムスキーは、子どもが不完全で断片的な言語入力しか受けていないにもかかわらず、正確で体系的な言語能力を獲得する事実に注目していた。ここでも問題の構造は同じだ。すなわち、「与えられた情報以上の知識がどこから来るのか」という問いだ。
チョムスキーは、この問いを「プラトン問題」として定式化した。こうして『メノン』における認識のパラドックスは、「刺激の貧困」という現代的問題として、人間の知識の起源をめぐる議論の中心に据えられることになる。
2. デカルトの問題──「自由すぎる」という謎 問いの核心
人間はなぜ、規則に従いながらも、これほど自由かつ創造的に言語や思考を用いることができるのか?
チョムスキーが提示したもう一つの難問、「デカルトの問題」は、人間の言語や思考の持つ過剰な自由と創造性をめぐる問いである。
人間は同一の状況、同一の条件に置かれても、同じ反応を起こすとは限らない。自然の法則に従う物質とは異なり、そこには主体的な自由さがある。
特に言葉による表現は、その自由さが顕著だ。同じことを表すのにも、無数の異なる表現を生み出すことができる。この振る舞いは、単純な「刺激→反応」という機械的モデルでは捉えきれない。
この問題の原型は、近代哲学の出発点に位置するルネ・デカルトの『方法序説』第5部に見出される。デカルトは、思考実験として、人間の身体の機構と全く同じ機械(いわゆる自動人形オートマット)を想定する。そして、オートマットと人間を区別する基準として、言語の使用能力に注目した。
自動機械は自らの機構に従って、外部からの刺激に、適切な反応を行うことができるだろう。また、あらかじめ設定された範囲内であれば、言葉を発することもできるかもしれない。
だが、人間と異なる点が一つだけある。それは、人間は状況に応じて主体的、創造的に振る舞う、ということだ。オートマットは、状況に応じた意味的に適切な応答を行うことはできない。
われわれの身体に似ていて、実際上可能なかぎりわれわれの行動を真似る機械があるとしても、だからといってそれが本当の人間ではない、と見分けるきわめて確実な二つの手段が、やはりわれわれにはあるだろう。その第一は、これらの機械が、われわれが自分の思考を他人に表明するためにするように、ことばを使うことも、ほかの記号を組み合わせて使うことも、けっしてできないだろうということだ。機械がことばを発するように、しかも器官のなかに何らかの変化をひき起こす身体作用に応じて、いくつかのことばを出すように作られていることは十分考えられる。たとえば、機械のどこかに触れると、何を言いたいのですかと質問し、ほかの所に触れると、痛いと叫ぶとか、それと似たようなことだ。けれども、目の前で話されるすべてのことの意味に応じて返答するために、ことばをいろいろに配列することは、人間ならどんなに愚かな者でもできるが、機械にできるとは考えられないのである。第二は、このような機械が多くのことをわれわれのだれとも同じように、あるいはおそらくだれよりもうまくやるとしても、あるほかの点でどうしてもなしえないことがあり、それによって、機械は認識することによって動くのではなく、ただその諸器官の配置によって動くだけであるのが分かることである。というのは、理性がどんなことに出合っても役立ちうる普遍的な道具であるのに対して、これらの諸器官は個々の行為のために、それぞれ何か個別的な配置を必要とするからだ。したがって、生のありとあらゆる場合に応じて、理性がわれわれを動かすのと同じやり方で、一つの機械のなかに、諸器官が十分多様に具わってその機械を動かすということは、実際的には不可能なことになる。
ルネ・デカルト『方法序説』岩波文庫 pp.75-76
機械は、特定の条件下ではうまく振る舞えたとしても、あらゆる状況に柔軟に適応することは不可能である。ここでデカルトが見抜いているのは、人間の言語行為が単なる機械的出力とは異なり、状況理解と意味判断を伴うものであるという点だ。
チョムスキーは、このデカルトの洞察を現代的に再解釈し、言語理論の中核に据えた。彼は、人間の言語行動に見られる独特の自由と創造性を、より精密な理論的枠組みによって再定式化している。その際に提示されたのが、言語使用を特徴づける三つの基本的性質だ。
一つ目は、「刺激からの独立性(stimulus-free)」だ。人間の発話は、外部から与えられた刺激に対する単純な反応として決定されるものではない。同じ状況に置かれても、人は常に同じ言葉を発するわけではなく、複数の表現可能性の中から選択し、あるいは新たに生成する。この意味で、発話は行動主義的な意味での「反応」ではなく、内的な規則体系に基づく「生成」として理解されるべきものである。
次に、「無限の生成性(unbounded creativity)」が挙げられる。人間の言語は、有限の語彙と文法規則しか持たないにもかかわらず、それらの組み合わせによって無限に新しい文を生み出すことができる。このため、私たちはこれまで一度も聞いたことのない文であっても理解することができ、また自らも無制限に新たな文を作り出すことが可能である。この性質は、言語が単なる記憶の集積ではなく、生成的システムであることを示している。
最後が、「適切性(appropriateness)」だ。人間の発話は単に自由であるだけではなく、常に文脈に照らして意味的に適切であることが求められる。発話は社会的規範や論理的整合性といった制約の中で選択され、無秩序に生成されるわけではない。したがって、言語使用は「何でも言える自由」ではなく、「状況に即して適切に言える自由」として特徴づけられる。
ここに言語の根本的なパラドックスが浮かび上がる。
すなわち、言語は文法という厳密な規則に従って構成される体系であるにもかかわらず、その運用はきわめて自由で創造的であるという事実だ。この「規則への従属」と「自由な生成」という一見矛盾する二つの側面が、どのようにして両立しているのか。この問いこそが、「デカルトの問題」と呼ばれるものの核心であり、人間の心的構造の本質に迫る重要な論点となっている。
今なお、意味を持つ問い
ノーム・チョムスキーがこれらの問題を現代的に再定式化したことによって、議論の射程は大きく拡張された。とりわけ、知識の生得性や心的構造の在り方をめぐる研究は、言語学の枠を越えて認知科学や脳神経科学へと広がり、1950年代の認知革命をもたらした。
そして、現代のAI研究において、この問題は新たな形で再浮上している。AGI(汎用人工知能)の実現が模索される中で、人間のような知識の豊かさや柔軟な創造性を、単なるデータ処理や学習アルゴリズムによって再現できるのかという根本的な問いが、改めて問われている。
結局のところ、これら二つの問題が問いかけているのは、「人間の知性とは何か」という極めて古く、しかし、なお解かれていない問いだ。限られた経験から豊かな知識が生まれ、厳密な規則のもとで自由な創造が可能になる──この二重の謎は、言語を超えて、人間理解そのものの核心に位置し続けている。そして、その問いは今や、認知科学やAIという新たな舞台において、改めてその射程と深度を増しながら、私たちに思考の再編を迫っているのだ。




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