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変化する日本語 – 外山滋比古『日本語の感覚』

桜 千言万句

絶版本を読む
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外山滋比古『日本語の感覚』(1975)

日本語の変化

 前著『日本語の論理』において、欧米言語と日本語の特質の差を名詞構文と動詞構文の差として特徴付けた外山氏だが、本書ではこの全く性格を異にする欧米言語を日本人がどのように受容していったのか、その歴史に焦点が当てられている。

 欧米言語は、思考の中核を名詞によって概念化し、それを動作主(主語)、作用(動詞)、被作用者(目的語)という形で、「原因と結果」という因果関係の中に位置付けて捉えようとする。そのため、状況を概念的に操作することに優れている。
 それに対し、日本語の文は用言(動詞および形容動詞)によって、文全体を文末でまとめ上げる。つまり、用言によって、話者の意識が志向する状況全体を特徴付けようとする。情緒的な全体の把握が優勢となる言語だと言える。

 このように極めて異なった論理に従って構成されている西欧言語と日本語———
 西欧言語に接することで、日本語にどのような変化が起きたのか。本書ではそれを歴史的に位置付けることを試みている。

翻訳文化と言文一致運動の歴史

 翻訳文化と言文一致運動は、ともに外来文化の刺激によって始まった。その意味で、日本における両者の展開は表裏一体の関係にあった。著者は、過去一世紀にわたる我が国の国語と文章の性格は、これら両者の関連の中で捉えなければならないと述べている。

 近代化以前の日本語は、もともと異質な言語同士が混ざり合ってできた混合言語であった。漢字交じりの仮名文という文体は、概念化に得意な漢語を動詞構文の和文が包摂するという形で生まれたものだ。日本において漢語は主に観念や概念を表現するために用いられ、漢語が名詞による概念化の役割を担っていた。それを動詞を中心とした構文の和文が包摂するという文体を生み出した。

 そこへ西欧語を訳した言葉が新たに入ってきた。この新参の欧文脈は、和文脈や仮名表記となじまず、むしろ漢文脈との親和性が高かった。もともと概念化の能力に優れていた漢字の力を借りて、漢語により短期間で数多くの翻訳語が生み出された。これは、翻訳語の多くが名詞中心に訳されてきた事実に端的に表れている。動詞については在来の日本語の動詞が充てられたが、名詞はその性質上、日本語に該当する語がない場合が多く、訳語の創出においては名詞にこそ苦心が集中した。

 しかし、名詞中心・漢字中心の翻訳文化において、それらを動かすための動詞はなおざりにされたと言ってよい。翻訳名詞は静的な「点」のような観点であり、感覚的裏付けを欠いていた。輸入されたのは「沈黙の文化」であった。その結果、外国の文物や思想は、実際以上に観念的・抽象的なものとして受け取られた。生活に根ざした言葉も実体を失い、観念の輪郭のみを伝える訳語へと変貌した。

 この時期、文末語調を口語的にすることを目的とした言文一致運動も進行していた。言文一致運動は、動詞中心という性格を持っており、文末表現が常に重視され、そこから口語化が始まった。

 一方で、翻訳文化の第一期は名詞中心として始まった。そのため翻訳文はなお生硬な表現に包まれており、理解には抽象的思考を要し、極めて男性的な性格を帯びていた。この点において、翻訳文化は言文一致運動とは逆の方向を向いていたと言える。

 言文一致運動は、明治末から大正にかけて大きく発展し、ほぼ完成を見た。大正デモクラシーを背景に、小説における口語文が著しく発展し、大正11年には新聞の全紙面も言文一致化された。

 翻訳文は、この時期に名詞中心の翻訳から抜け出し、言葉と言葉を結び合わせて新しい思想を表現しようという文章への関心が高まる。名詞に続いて動詞の発見が行われるようになったのである。
 しかし、名詞の訳出が辞書を通じて画一的に行われ普及していったのに対し、動詞の発見は文体の創造そのものであり、一般に浸透しにくかった。国民的な文体は依然として欠如しており、各人が独自に文体を模索する結果、それは連帯感のない自我の主張となり、いわゆる「表現上の個人主義」を育てることとなった。

 第一期における論理的・実学的・観念的な側面に比べ、第二期の翻訳文化は感覚的・芸術的な性格を帯びてはいるものの、依然として柔軟性を欠いていた。その象徴とも言えるのが、生硬で難解な訳文である。近代日本語に標準的な文体が存在しなかったため、翻訳は原文の文脈に引きずられ、非慣用的な訳文に陥ることが多かった。

 形式的には言文一致が完成したように見えながらも、公用文などでは依然として文語体が用いられていたことからも明らかなように、言文一致は表層的な達成にとどまり、その本質には及んでいなかったのである。

翻訳文化の問題

 近代日本語は、外来系言語と在来言語からなる二重言語構造を有している。これは一般的に「翻訳文化」の問題として捉えられてきた。
 心にある本当のことを語るときには、感覚的で方言的な話し言葉が適しているが、公的な発言には、標準語的で外来文化に由来する、感覚を欠いた表現がふさわしいとされる。この両者はしばしば対立し、その間に潜在的な緊張を孕むことになる。
 こうした言語的な二重構造の対立する世界が、少しずつ歩み寄り、それぞれの個性を保ちながら調和へと向かおうとする段階が、翻訳文化の成熟期、すなわち戦後から始まる第三期である。

 昭和初期から戦後にかけて、言文一致運動においては、口語文のさらなる洗練が図られた。戦前まで文語体を保持していた官庁の公用文や法令文も、昭和20年の終戦を契機として、ついに言文一致へと移行した。ここにおいて、歴史的運動としての言文一致はその終焉を迎える。

 一方、翻訳文化における二重構造の調和的解消は、生硬な翻訳調の言語が伝統的な日本語へと順化していくことによって進められた。外来語的要素が優勢な言語文化においては、文語が重んじられ、「沈黙の文化」としての言語が肯定された。論理が視覚的言語と結びつくとするならば、感覚はより多く発声と聴覚の言語に関わる。近代日本は、論理と文体を優先するあまり、言語表現から感覚的要素を欠落させてしまった。しかし、この時期に、正常な言語表現を求める心が目を覚まし、言語に感覚を呼び戻そうとする動きが始まった。言語に再び「声」が戻ることで、初めて真の国語の一体化が実現されるのである。

 第三期の翻訳文化は、在来言語になじみ、感覚的で、より女性的な性格を強めていく。新しい日本語に「声」を見出すことは、すでに始まっていると言ってよい。無声の文化は、やがて必ずや「声」を発見するに至るのである。

翻訳文と翻訳文化の今後

 現在においても、学術書の翻訳文には、「これでも本当に日本語なのか」と疑いたくなるほど読みづらいものが少なくない。その意味で、翻訳文との格闘は、いまだ終わっていないと言えるだろう。こうした翻訳文によって形成された翻訳文化は、言語における二重構造を生み出し、日本的なものと西欧的なもの、内と外、高文化と低文化といった対立的な文化構造をもたらした。日本人の意識は、今なおこの構造に大きく規定されている。

 日本人が日本語でものを考える限り、このような意識構造を前提として受け入れざるを得ない。しかし、こうした翻訳文化による意識の二重構造は、実は近代以前から「和文」と「漢文」という形で存在していた。むしろ、日本語がもともと混成的な言語として成立していたからこそ、西欧言語の受容と消化が極めて短期間のうちに容易に進んだとも考えられる。欧米の翻訳語は、もともと漢語が担っていた役割と地位に取って代わったにすぎないという見方も可能である。翻訳文化やそれにともなう言語の二重構造は、実は多くの文化において普遍的に見られる現象である(たとえば、英語におけるラテン語の位置を考えれば理解しやすいだろう)。

 日本語の発展にとって重要なのは、こうした二重構造を一方的に批判したり、克服すべきものとして否定したりすることではない。本書においても著者は、翻訳文化によって形成された二重構造に対して、特に評価や判断を加えることはせず、あくまでその歴史的存在を指摘するにとどまっている。まず求められるのは、自身の言語意識がこの二重構造によって規定されていることを自覚することなのだろう。

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