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日本語の独自性とは? – 外山滋比古『日本語の論理』

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外山滋比古『日本語の論理』(1973)

西欧語との対峙

 著者の外山氏は1923年、大正12年の生まれ。第二次大戦が始まる直前から戦中にかけて英文学を学んだ。
 この頃はまだ、日本語は西欧言語に比べ、非論理的であるという明治以来の根強い言語観が残っていた時代だ。西欧語と日本語の関係は、常に模範と模倣という関係であった。模範としての西欧の近代言語がまずあり、それに対して日本語を近代言語へと近づけていくことが課題だった。
 このような問題意識はまず、西欧の言語を翻訳する際に最も顕著に現れた。近代語としての欧米の言語を如何に消化し、翻訳としての文章をどう日本語に定着させていくのか、という問題だ。
 日本語に翻訳できないもの、あるいは、しづらい文章などは、どうしても日本語の表現力の問題として受け取られてしまう。そのため、日本語は、西欧語に対して、異質な、あるいは未発達な言語という観念が広がっていった。

 当時、外国文学を学ぶということは、一方の日本語をどう評価するか、どのように近代言語へと近づけるか、という問題意識と密接に関わっている。外山氏の一連の著作には、このような問題意識が色濃く現れている。 
 明治、大正における西欧語を模範とするような考えからは、諸言語を対等に位置付けた上で、客観的に比較するという視点は生まれてこない。つまり、言語学的な科学的視点が生まれる余地は、まだなかったのだ。
 だが、昭和の初期頃から日本語の独自性を模索し始める人たちが現れるようになる。戦後に入ると三上章の主語廃止論など日本語独自の文法理論の発表が相次ぐ。特に60年代から70年代初頭は、日本語の論理や独自性が注目されるようになった時代だ。外山氏もそうした時代意識の中で、日本語の非論理性という通念に異を唱えた一人だ。

日本語の論理の独自性

 本書で一貫して流れている主題は、日本語は非論理的なのではなく、日本語それ自体の論理があるというものだ。日本語の論理を欧米の言語を規範として当てはめるから、それから外れたものが全て非論理的に見えてしまうだけだ、という発想がその根底にはある。
 本書は評論という体裁をとっているため、個々の文法事項や文構造を比較するといった研究書的なものではない。英語をはじめとした欧米言語と日本語の性格の違いを大枠で捉えた議論を展開している。希代の文筆家らしく、文章を組み立てる際の発想の違いに焦点を当てた考察だ。

名詞構文と動詞構文

 英語と日本語とでは、文構造や文法に大きな隔たりがある。言語間にこれほどの大きな差が見られるのは言語学的にもかなり珍しいほうだ。しかし、こうした文構造や文法の違いを理解することはできても、なぜこれほどの違いが現れるのか「その理由」を理解するのは極めて難しい。著者はこうした差を生む言語の根底にあるそもそもの発想の違いに着目していく。
 まず著者は、欧米の言語を名詞構文、日本語を動詞構文として捉えている。文章構成の原理を日本と欧米で比較すると、日本語は動詞を文の核とし、欧米の言語は名詞を文の中核に据えるという。

 では、英語に代表される名詞構文とはどのようなものかというと、話題の中心となるものを名詞として概念化し、その名詞を中心に文を構成していく文構造のことを言う。文の中心となるものが概念化され、名詞として文の主語となる。この主語は、動作の主体であり、それが、一方の対象(目的語)へ何らかの働きかけ(動詞)を行う。動作主体があり、それが他の対象へ影響を及ぼすという因果関係で全体を捉えていく。
 つまり、英語など西欧語は、因果関係によって文章を組み立てる。言い換えれば、因果論として世界を把握している。

 一方、動詞構文を主とする日本語は、因果関係として状況を把握するのではなく、状況全体を特徴付けることで、状況の全体像を提示しようとする。話題(助詞の「は」で表される)や主格(助詞の「が」によって表される)などによって話しの状況を限定したうえで、文末の用言(動詞や形容動詞)によって全体を把握する。つまり、日本語を代表とする動詞構文は、思考の全体像を動詞で纏め上げるという形式をとる。そのため、日本語は、話者の視点から状況全体を特徴付ける性格が強い。ここから日英両者の性格の差が現れてくる。

 日本語は文末の用言を中心に文を構成していくため、欧米のような思考の中核を明確化するのに不向きだと言える。名詞構文は、中心概念を名詞に託すが、動詞構文ではそれが動詞に預けられるため、名詞で表現されれば明確になるであろう概念が、動詞で表されるために輪郭がぼやけてしまうことが少なくない。

 日本語の情緒的な性格はこの点に由来している。情緒性は、思考や概念の操作を困難にしている。また、日本語は外部の言語との接触が希薄な室内語として発達した面が多いため、表現しなくても当事者間で理解できるような文法的要素は脱落している。
 主語が表現されない文章では、主語の欠落が構文の前提になっているため、話者に想定されないようなものが主語になることを許さない。そのため日本語では、主語は、大体において人間、あるいは擬人化されたものに限られていている。
 欧米言語のような抽象名詞や無生物が主語になるような文はもともと日本語では一般的ではなく、翻訳文の中から徐々に定着したものだ。これは言い換えれば、日本語の動詞がいつも人間を主語にとることを想定しているということだ。人間中心の視点で物事全体を捉えていくため情緒的な性格が強くなる。

日本語の創造性

 だが著者は、日本語のこうした概念化や概念操作の弱さは、弱点であると同時にまた強みでもあるという。
 欧米の言語は、名詞による概念化を文構成の中心にするため、論理構造が比較的固定されている。それに対し動詞構文は、構文形成の自由さと開放性をその特徴としている。この構文形成の自由さは、明治以来の翻訳文を日本語として定着させることを容易にした。
 もともと確固とした論理展開がないため、異質な論理構造も受け入れるだけの下地がある。日本語としてはきわめて不自然な翻訳の文体も比較的容易に受容し消化してきた。また日本語の開放性は外来語の受容も容易にしている。ここに日本語の柔軟性と創造性の要がある。

 一方、西欧の言語では、自由な主語の選択と比喩、アナロジーの多用が創造性の要になっている。
 日本語は西欧の言語に比べ比喩が乏しいという指摘が行われているが、それは日本語が文形成の開放性を特徴としていたため、比喩による創造性をあまり必要としなかったからだ。日本語では一般名詞を主語に迎えることに抵抗を示すため比喩の規模が小さくなっているが、日本語には日本語の論理が存在し、それに基づいた文章の創造性が他にある。その創造性の基礎となるのが動詞構文の持つ自由さなのだ。

日本語の特質を冷静に見つめる視点

 著者は日本語の論理を擁護しているが、それは礼賛していることとは違う。英語をはじめとした欧米言語と日本語の性格の差を冷静に比較し、その上でそれぞれの長短を論じている。日本語が概念化の点において欧米言語に劣っているという認識がそれを物語っている。
 彼我の差を冷静に見つめた上で、どのようにしてその欠点を克服し長所を伸ばすことが出来るかを考えようとした結果だろう。著者のこうした均衡のある態度が、日本語の特徴を掴むことに成功させたのだと思う。

追記

 ながらく絶版でしたが、最近ようやく再販され、電子書籍版も登場しました。
 はっきり言って名著です。この機会に多くの人に読んでもらいたいと思います。