丸山眞男・加藤周一『翻訳と日本の近代』(1998)
日本の近代化を支えた翻訳文化をめぐる対談集。良くも悪くも日本の近代化は翻訳を中心に進められた。その思想史的な意義と功罪をめぐって、戦後日本を代表する思想家二人による対話が交わされている。
翻訳文化の始まり
日本の近代化は、19世紀半ば、ペリー来航 (1853) から日露戦争 (1904-05) まで、つまり、ヨーロッパ大陸におけるクリミア戦争 (1853-56) とアメリカ大陸における南北戦争 (1861) とのために外圧が一時的に減少した間隙を利用して一挙に展開された。
その間、翻訳及び翻訳思想は、日本の計画的な近代のために必要とされ、歴史に類例のないほど大規模に展開した。この翻訳文化が、日本の近代化のあり方を方向付けることになる。
西欧文化の移入を決定づけた歴史的事件の一つとしてアヘン戦争がある。
アヘン戦争 (1840-42) では、中国は中華思想を基本にして国際関係を理解していたため、領土の問題より礼の問題に拘った。それに対し、日本では領土意識が重要で、領土は神国の神聖な土地という観念を持っており、これは近代国家の領域の観念に似ていた。このアヘン戦争に対する衝撃が、攘夷論を開国主義に転換させた根本的な思想的背景にあった。
幕末になると、西欧との物理的接触が俄かに増えてくる。江戸時代を通じて中国との間には、物理的、人的接触は極めて少なく、情報のみが日本に届いていたが、幕末から明治初年にかけては、状況が全く逆で、物理的、人的接触は増えているのに情報が全くないという状態であった。海外の情報を急速に集めようとする意識が、明治の翻訳文化を作り上げていくのである。
江戸期儒家の翻訳思想
短期間に文化のほとんどあらゆる領域にわたって翻訳を成し遂げるには、日本の側にそれを準備するための然るべき歴史的経験がなければならない。それが江戸時代の儒家の知的営為であり、言語学的な手段であった。
荻生徂徠は、公と私の領域を明確に区分し、政治と詩文を道徳から解放した。こうした区分を可能にさせたのは、原典、原語に忠実にあたって古典を解釈しようとする言語学的な意識であった。徂徠は、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派)を確立した。
また、吉宗に提出した政治改革論『政談』(1716-36) には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想すなわち、経世論が本格的に生まれてくる。
伊藤東涯の『助字考』(1716) にも比較文法論的な言語意識を持った文辞学が見られる。また、新井白石には、異文化理解の体系的、組織的な展開が見られる。白石は、『西洋紀聞』(1715)、『南島志』(1719)、『蝦夷志』(1720) といった日本を取り巻く異文化の記述を行っている。
徂徠の時代は、知識人たちが異文化の存在を意識した時代であり、異質性の自覚が、言語や原典への意識につながっていくのである。
翻訳文化の時代へ
自由民権運動家の馬場辰猪 (1850‐88) は、Elementary Grammar of the Japanese Language, with Easy Progressive Exercise という本を出しているが、1873年 (明治6年) の初版本の序文では翻訳主義の意義について書いている。これは森有礼の英語公用語論に対する反論で、インドの階級問題などに触れ、言語による階級分裂の問題を指摘している。
だが、この序文は、1888年 (明治21年) の増補版では削除されている。明治6年の段階では、翻訳文化をめぐる状況は混沌としていて、どのような言語政策が採られるかまだ分からなかったが、明治21年にはもう英語を国語にするという課題は現実には問題外となっていたからだろう。
1883年 (明治16年) に矢野龍渓が、翻訳書をどのように読むかという『訳書読法』という指南書を書いているように、当時すでに翻訳書の洪水で翻訳文化の時代になっている。1926年 (大正15年)、改造社を皮切りに刊行が始まった円本や1927年 (昭和2年) に刊行を始めた岩波文庫ができる以前から、原文を読まず、翻訳から西欧文化を学ぶ翻訳文化は日本で定着していたのである。
科学観、世界観の変容
明治初頭の訳書には、兵法などの軍事関係書、蒸気機関についてなどの工業技術書が多く、自然科学の分野では、物理や数学よりも化学が多い。化学への関心は、代表的な軽工業である繊維産業にとって必須の化学染料や、化学肥料、軍事技術にかかわる火薬などへの関心から発している。
そして、この化学における実験は、西洋思想の先進性の象徴になる。朱子学の陰陽五行のように先験的に決まっている絶対的真理から自然への理解が演繹されていくのではなく、実験によってその正しさが証明されるというのは当時の日本人にとって新鮮な衝撃だった。
だが、世界観という面では、ニュートン的な数学的物理学のほうが衝撃が大きかったといえる。主観と客観を対立させて、あらゆる意味とか価値を剥奪して世界を見る方法は、日本の思想史には全くない。
福沢諭吉は、虚学という言葉を使って、空理空論の大切さを言っている。従来の陰陽五行に基づいた実学では、技術の進展が実用の範囲を出ることがない。技術の基礎にある自然の客観化の意義を福沢は認めているのである。
西欧においてもニュートン的な抽象的自然理解と科学技術は乖離していたのが、19世紀後半になって熱力学が現れて技術と思想が結び付いていく。福沢は、少なくとも物理学的世界観が東洋にないものとして、西欧文明の核心として理解していたのである。
翻訳文化の功罪
翻訳文化は、一方的な文化の流入を意味していた。この文化の一方通行は、国際社会における相互理解ではなく、一方的な自己解釈とともに孤立を招く。この孤立を破り、国際社会において自己主張するために近代日本が採った手段が、軍事進出であり、経済進出であった。
しかし、円滑な意思疎通と相互理解を欠いた軍事進出、経済進出には、おのずと限界が生じる。そこに翻訳文化の限界もあったと、丸山は言う。
この翻訳文化に対する評価は、軍国主義への批判に生涯をかけた丸山らしい結論だ。翻訳文化の最大の欠陥は、相手を理解しようとする一方的な情熱そのものの中にある。異文化や他者を理解するための翻訳が、自分の中だけの、自己解釈や自己理解だけに拘る態度を生み出してしまう。その結果、皮肉なことに、対話そのものが失われる。他者を理解する上でもっとも大事な相互理解 (communication) が軽視されてしまう。
異文化への理解として始まった翻訳という営みは、他者を自分の言葉でどう理解するかという自己解釈を作り上げる試みであり、本質的に対話を欠落させている。そのため、容易に他者の存在を見失わせやすい。翻訳文化は常に相互の意思疎通が失われる危険性を常に孕んでいるということだ。
いくら翻訳を作り上げても自分自身の存在は決して相手から理解されないという、一方通行の自己理解を克服するための行動が、軍事的、経済的な進出につながっていった―――丸山のこのような理解は、結論が飛躍しすぎているように感じるが、翻訳文化が自己解釈のみに拘る閉鎖的な精神を生むのではないかという示唆には、学ぶところが多い。
現在においても、和製英語の氾濫や西洋の慣習を次々と取り入れる態度には、異文化の背後にある他者の存在を理解しようとする姿勢が全く見られない。つまりは、自分たちの中だけの自己解釈に嬉々としていて、自分たちにとって意味があれば、それでよいという態度に終始している。
海外では全く通じない和製英語、原語の意味も分からず使うカタカナ語。歴史的な意味や由来をまったく考えずにただ表面的に猿真似するだけの風習(たとえば、キリスト教風のウェディングに始まり、クリスマス、バレンタインデー、最近では、ハローウィン、イースターなど日本人が嬉々として安易に猿真似するものは、数え上げれば切りがない)。
そこには、異文化を理解するということは、他者との絶え間ない対話だ、という理解が完全に欠落している。そのため、日本の安易な西欧化の態度からは、その西欧という他者の存在が全く見えてこない。
異文化の背後にある伝統や思想を全く無視して、メディアの大衆消費文化に都合の良い解釈だけで取り入れ、自家消費することだけにひたすら満足している。そこには「多/他文化」との「対話」いう視点はどこにもない。自らの都合の良い解釈だけを受け入れて、弄んでいるだけだ。
それは結局、異質なものを理解しようとしている態度ではなく、むしろ、異質な存在を消し去っている。そして、その結果として、単一民族による排他的な解釈で出来上がった、一方的な理解の「異文化」が氾濫することになる。
今の日本で氾濫する安易な西欧化には、異文化や他者という視点を欠いている。他文化の言語や風習をいくら取り入れても、そこにあるのは、自己満足のためだけの上っ面の「国際化」があるだけだろう。見た目の西洋らしさは、国際化の証でもなんでもなく、日本的な島国根性の証でしかない。翻訳文化の功罪は今もなお続いているのだろう。