ネタバレ注意!
作品の核心に踏み込みます。読後に再訪されることを推奨します。
カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』早川書房 (2006)
Kazuo Ishiguro, Never Let Me Go, 2005
青春小説?
物語は、31歳になったキャシーが、これまでを振り返る形でゆっくりと語られる。
彼女の言葉は丁寧で、穏やかで、どこか他人事のようにさえ聞こえる。
でもその淡々とした語り口の底に、言いようのない諦めと、それでも消えない小さな疼きが沈んでいる。
ヘールシャムという美しい寄宿舎で過ごした子ども時代。
そこで交わされた他愛もない会話、絵を描いたり詩を書いたりした時間、仲間たちとの微妙な距離感と嫉妬と優しさ。
すべてが、普通の思春期の記憶のように描かれているからこそ、読者は徐々に気づいてしまう。
──この子どもたちは、普通の子どもではない。
まるで青春小説のようにはじまりだ。だが、この物語には、たった一つ、決定的に奇妙な事実が組み込まれている。
それは、ヘールシャムで暮らす子どもたちは皆、「提供」するために生まれてきた、ということだ。
彼ら子どもたちは皆「臓器提供者」として生まれたクローン人間なのだ。
臓器を何度も取り出され、最後には「完了」する運命を、最初から与えられている存在だ。
この事実は序盤で端々にほのめかされるが、物語が進むにつれ、少しずつその全貌が明かされていく。
自己決定権の喪失と諦念
急速に進歩する遺伝子操作技術や臓器移植の是非———
この物語は、そういった現代に生きる人々の生命倫理を主題としたかったのだろうか。おそらく、そうではないだろう。
臓器提供やクローンは、物語上のただの仕掛けにすぎず、主題はおそらく他にある。
この物語を読んでいて、終始感じる奇妙な違和感は、「提供者」である彼らはなぜ抵抗しないのか、彼らはなぜその事実をそのまま受け入れているのか、というところにある。
提供者であるキャシーやトミー、ルースといったこの物語の中心的な人物たちが、「提供者」としての自らの運命をどう考えているのか、その点はほとんど語られていない。彼ら友人同士の関係やそれにまつわる感情は、微に入り細を穿ち描いているのに、最も根源的な、人間の基礎としての部分でその描写が欠けている。
それは、自我であり自尊心であり、「生きたい」という強い欲望だ。
彼らの心理が丹念に描かれれば描かれるほど、その奇妙さが際立ってくる。
人は何に対して、生きることの喜びや充実感を見いだすのだろう?
つまりは、生きることの意味を何に求めるだろうか。その答えは人それぞれだろうが、それを見いだすことができるためには、絶対的に一つの条件が必要になる。それは、自分の人生は自分自身で決めるという感覚だ。つまり、自分の「生」に対する自己決定権である。どんな生きる目標も充実感も、それがあって初めて意味を持つものだろう。自我も自尊心もそこから生まれる。
だが、この物語では、それが初めから奪われている。ヘールシャムの学生たちは、幼い頃から自らの運命をおぼろげながらに自覚している。そして、成長するにつれ、自らの運命を理解し、自らその役割を自覚していく。そして、まるで東洋的な諦念とでもいうような心理で、ごく自然とその運命を受け入れていく。生徒の何人かは、卒業するまでに、提供者としての役割を全うすることが自分の使命だと言うようにまでになっている。
普通の日常と異常な運命
では、彼らは自らの境遇に疑問を抱かないような存在としてはじめから造られているのだろうか。だが、それも違う。彼らの学生生活や日常は、われわれと全く変わらない。むしろ、ありふれたものというぐらい普通なのだ。そして、この物語は彼らのごくありふれた日常こそを淡々と描いている。彼らの抱く心情や悩みといったものは、誰もが共感できるようなものだ。それだけに、彼らの背負わされた宿命が日常の背後から、異様な姿で垣間見えてくる。
彼らは決して中身のない人間たちではない。その証拠に彼らは自らの決定権を決してすべて放棄しているわけではない。ルースは運命に従いながらも、懐疑や不満を内に秘めている。キャシーとトミーは、僅かな噂を信じて、提供がほんの数年猶予される可能性にかけて行動する。ルースもまたそれを助けようとしている。ヘールシャムのエミリ先生とマダムと呼ばれたマリ・クロードは、提供者たちが、普通の人間と全く変わりないと分かっているからこそ、彼らを人間として、豊かな感受性をもった人として育てようとした。
キャシーは、外の世界も知っているし、自らの境遇も正しく理解している。将来は雑誌で見たような綺麗でおしゃれなオフィスで働きたいと夢見ている。ありふれたごく普通の少女に過ぎない。それは他の生徒達でも同じである。だが、それにもかかわらず、彼らは「提供者」という自らの運命の前に、極めて従順に従うのだ。しかも、疑うことすらせずに。
結局、この物語が描きたかったこととは、このことなのではないだろうか。
私たちは、自分の人生は自分で決めていると思っている。すくなくとも、すべてが他者に決定されているとは考えていない。
しかし、自分の人生の決定権とは、いったいどこまでのことを言うのだろうか。多かれ少なかれ、自分の生まれた境遇というのは、自分の意志とはかかわりなく与えられたものだ。その運命に対して、われわれは、どこまで疑い、抵抗しただろうか。また、出来るのだろうか。
私たちは本当に自由か?
トミーが最後に野原で泣き叫ぶ場面がある。
あれは、たぶん物語の中で唯一、運命に対して真正面から吠えた瞬間だった。
でもその叫びさえ、すぐに静かな雨に溶けていく。
キャシーは彼を抱きしめ、慰め、そしてまた日常に戻っていく。
人間は、どれだけ理不尽な現実を前にしても、日常を続ける術を身につけてしまう。小さな思い出を大事に抱えながら、与えられた枠の中で「きちんと」生きようとする。それが救いであると同時に、もっとも残酷な呪いでもあることを、この小説は教えてくれる。
顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。
この小説の最後の一節だが、われわれが人生に対してとっている態度とは実はこのようなもののではないだろうか。
われわれは何気なく生き、何気なく日常を過ごしている。しかし、自分の生を決定する運命は、日常の背後でずっと息をひそめて存在し、時々その姿を垣間見せる。それが自分にとってどんな意味を持つものであっても。そこには、抗えない運命の恐ろしさや人間の儚さがあるのだと思う。
カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』早川書房


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