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【自分の頭で考える哲学】第16回 ― 実存とは何か

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実存とは何か

みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第十六回です。

これまで私たちは、「私とは何か」「なぜ他ならぬ私なのか」という問いについて考えてきました。

その議論を通して、「実存」という問題の性格が少しずつ見えてきました。

そこで浮かび上がってきた一つの重要な事実があります。

それは、歴史や科学は、「存在がどのように生じ、どのような過程を経て現在に至ったのか」を説明することはできても、「存在する」という事実そのものや、なぜその存在が「今ここ」にあるのかという事実そのものは説明できない、ということです。

では、この「説明できない事実」とは、いったい何なのでしょうか。

それこそが、実存なのです。

実存とは、「今ここにある」という事実である

実存とは、言葉によるあらゆる説明を超えたところにある、「今ここにある」という事実そのものを意味しています。

それは、何か別の事柄によって説明される対象ではありません。

むしろ、あらゆる説明が成り立つための出発点です。

私が今ここに存在しているということは、それ以上の理由へ還元できない端的な事実です。

もちろん、私はどのように生まれ、どのような歴史をたどってきたのかを説明することはできます。

しかし、その説明はすべて、「私が存在している」という事実を前提にしています。

実存とは、その前提そのものです。

それは、説明が届かない場所であり、同時に説明が始まる場所でもあります。

言い換えれば、実存とは、言葉による説明の限界を示す概念なのです。

実存は一般化できない

「私」という存在は、他の誰かと置き換えることができません。

「なぜこの私なのか」という問いが成立するのも、そのためです。

歴史や科学は、「人間」という一般的な存在を説明することはできます。

しかし、「この私」を一般化することはできません。

実存とは、このような一般化できない唯一性と一回性を持った事実です。

それは概念ではなく、今まさに存在しているという事実そのものだからです。

実存の逆説

しかし、ここで一つの逆説に気がついたのではないでしょうか。

実存は、言葉によって一般化できない存在そのものを指しています。

それにもかかわらず、「実存である」という性質そのものは、あらゆる存在に共通しています。

私だけが「実存的にある」のではありません。
あなたの存在も実存的です。
目の前の人も実存として存在しています。
動物も植物も、石も星も、世界に存在するあらゆるものは、それぞれが「今ここにある」という意味で実存しています。

つまり、一つひとつの実存は一般化できない。
しかし、実存であるという性質は、すべての存在に等しく当てはまる。

ここに、実存という概念の逆説的な性格があります。

他者も本当に実存しているのか

ここで、一つの疑問が浮かぶかもしれません。

もし私の存在が、他の何ものにも一般化できない固有の実存であるとするなら、私が経験している世界もまた、私の経験を超えて一般化することはできないはずです。なぜなら、その経験はあくまで私に固有のものだからです。

では、私が直接経験している世界が、私に固有の世界だとしたら、その世界は本当に私から独立して存在していると言えるのでしょうか。

つまり、世界は本当に、私の意識を超えて、意識の外部に独立して存在しているのでしょうか。

さらに、他者の存在について考えてみましょう。
私にとって他者は、姿や声、行動など、私の意識に現れるものとしてしか与えられません。

そう考えると、次のような見方も可能になります。

「実存しているのは私だけであり、私以外のものはすべて、私の意識の中に現れているものにすぎないのではないか。」

哲学では、このような立場を、しばしば「独我論」と呼びます。

独我論は論破できるのか

独我論には、一つの特徴があります。

それは、事実によっても理論によっても完全に排除することができないということです。

なぜなら、どのような証拠を示されたとしても、
「その証拠も私の意識の中に現れたものにすぎない」
と言えてしまうからです。

この問題は古くからさまざまな思考実験によって考えられてきました。

例えば、
「世界は5分前に作られ、過去の記憶もそのとき同時に作られた」
という世界五分前仮説。

あるいは、
「私が経験している世界は、実際には脳だけが刺激を受けて見ている幻想にすぎない」
という水槽の中の脳という説。

さらに、
「私たちが生きる世界は高度なコンピュータによる仮想現実である」
というシミュレーション仮説。

これらはいずれも、「今経験している世界が本当に自分の存在とは独立して外部にある自律的な世界なのか」ということを根本から問い直す思考実験です。

これらの説は、実験や観察によって反証が与えられる余地のないもの(反証可能性のないもの)で、否定も肯定もできない性質のものです。

しかし、だからこそ、可能性の議論としては、いつまでも残り続ける問題になってしまうのです。

なぜ他者も実存すると考えるのか

では、私たちは独我論をどのように乗り越えているのでしょうか。

それは、新しい証拠が見つかったからではありません。
また、論理的に決定的な反証が与えられたからでもありません。

私たちは、
「私だけではなく、この世界に存在するものは、それぞれが私と同じように実存している。」
という立場を受け入れて生きています。

もちろん、この立場を証明することはできません。

しかし、独我論もまた証明することはできません。

その意味では、どちらも理論だけで決着できる問題ではないのです。

私たちが他者の実存を認めるのは、それが私たちの世界経験に最も自然に適合しているからです。

私たちは他者と対話し、協力し、ときには衝突し、ときには愛し合い、ときには傷つけ合いながら生きています。

こうした経験全体が、「他者もまた私と同じように実存している」という理解の上に成り立っています。

もっとも、「他者の実存を認めることが、私たちの世界経験に最も自然に適合している」ということ自体を疑うこともできます。

しかし、その場合私たちは、また独我論的な立場に舞い戻ることになります。そして、先に見たように、独我論もまた証明することも反証することもできません。

つまり、「私の存在だけが実存的である」という独我論と、「すべての存在を等しく実存として認める」という立場は、いずれも理論や事実だけでは正否を決定できないという点で、同じ性質を持っているのです。

つまり、どちらも経験的事実や理論的説明によって優劣を決められない性質のものだということです。

実存は「説明されるもの」ではない

ここまで見てきたように、実存は理論によって証明されるものではありません。

また、因果関係によって説明されるものでもありません。

実存とは、「今ここにある」という事実そのものだからです。

私の存在がそうであるように、他者の存在もまた、説明の対象というより、まず受け入れられるべき事実です。

そして、それは言葉によってさらに根拠づけられるものではありません。

むしろ、あらゆる言葉や理論が、その事実を前提として成り立っています。

だからこそ、実存とは、言葉による説明の極限を示す概念なのです。

私たちは実存を証明することはできません。
しかし、実存を抜きにして世界を経験することもできません。

実存とは、言葉で説明されるものではなく、私たちが世界の中で生きることを通して受け入れている最も根源的な事実なのです。

それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。

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