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灰色の紳士は、もうすぐそこに──タイパ時代に読む童話『モモ』

文学逍遥

ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫 (2005)
Michael Ende, Momo, 1973

童話や児童文学のなかには、むしろ大人こそが読むべきではないかと思わされる作品がある。
ミヒャエル・エンデの童話『モモ』もそういった作品の一つだ。

物語は一見、素朴でやさしい。始まりは、まさに童話(Märchen)の世界観だ。

古い円形劇場の廃墟に暮らす、不思議な少女モモ。
彼女には一つの特別な能力がある。
それは、
──人の話を聞くこと。

モモのもとには、いつも誰かがやって来る。ただ長い話をゆっくりと聞いてもらう。それだけで、人はなぜか心が軽くなり、生きる色を取り戻す。話すことで、見失っていた自分自身を回復していくのだ。
やがてモモの周りには、街中から人々が自然と集まるようになる。彼女が特別な助言を与えるわけでも、何かをしてあげるわけでもない。目に見える特別な出来事は何もない。それでも、モモを中心に、ゆったりとした時間が確かに流れている。

だが──

そこに、ある日、突如として「灰色の紳士」たちが現れる。彼らは、 葉巻をくゆらせ、灰色のスーツに身を包み、丁寧で冷たい言葉で人々に囁く。
「時間を節約しなさい。無駄をなくせば、人生はもっと豊かになる」

その一言を境に、街は徐々にその姿を変えていく。
子どもたちの遊びは消え、大人たちの会話は短くなり、笑顔はどこか引きつる。街全体が灰色がかって見えてくる。

「時間は節約しなくてはいけない」という呪文のような言葉が、あっという間に社会全体を覆い尽くしていく。

1973年に書かれた物語だという事実が、ほとんど予言としか思えない。
スマートフォンの通知音が鳴るたび、
「あとで」「今忙しいから」と先送りするたび、
「もっと効率よく」「タイパが」「生産性が」という言葉が脳内を飛び交うたび、
灰色の紳士がもうすぐそこに立っているような錯覚に陥る。

人々にとって「灰色の紳士たち」の最も恐ろしい点は、彼らの存在に気づけない、あるいは知ったとしてもすぐに忘れてしまうということだ。
彼らは私たち自身の中にすでに住んでいる──そういったことのメタファーだろう。
私たちが自ら招き入れ、丁寧に席を勧め、給仕までしているのだ。

そして、この物語の中で最も現代を風刺しているのが、節約した時間が「貯金」されているという設定である。
人々は一生懸命に時間を貯めようとする。
でも結局その貯金は、自分ではなく灰色の男たちの命を延ばすための燃料にしかならない。モモが最後に行き着く場所──「時間の花が咲く場所」──で、
私たちはようやく思い出す。
本当の時間とは、誰かと一緒にいるときにだけ感じられる、
長くも短くもない、ただ「今ここ」にあるものだったことを。

節約された時間は決して帰ってこない。貯金も利子も全て「灰色の紳士」たちがでっちあげた偽りだったのだ。

「今」という時間は、「今ここ」にしか存在しないのだ。

ミヒャエル・エンデは、子どもたちに向けて書いたつもりだったのかもしれない。
でも今、この物語が一番深く刺さるのは、
「時間がない」と言いながら、必死に画面のスクロールを続ける大人のほうではないだろうか。

誰もが仕事で忙しいのは当然だろう。しかし、仕事が忙しいということは、決して「時間がない」ということと同じではない。

道路掃除夫のベッポは言う。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
またひと休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
そしてまたまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」
ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。」

p55

忙しさの中にも「時間」はちゃんとあるのだ。それがいつの間にか仕事にかまけているうちに忘れ去られてしまう。
モモの物語は、忙しいと言っている大人たちにもう一度、「時間」が今、自分の眼の前にあることを思い出させてくれる。
それが、たぶん、この物語が半世紀以上経っても色褪せない理由なのだろう。

ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫

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