夜の路地、日本家屋、旅館

頽廃を描き続ける執拗さ – 川端康成『眠れる美女』

川端康成『眠れる美女』(1961)

 三島由紀夫は、新潮文庫版に解説を寄せて、この作品を次のように評している。

 『眠れる美女』は、形式的完成美を保ちつつ、熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品である。デカダン気取りの大正文学など遠く及ばぬ真の頽廃がこの作品には横溢している。

 この作品は、これ以上ない閉塞状態をしつこく描くことによって、ついに没道徳的な虚無へ読者を連れ出す。私はかつてこれほど反人間主義の作品を読んだことがない。

 読んでいてこれほど嫌悪感を覚える作品はほかに思い当たらない。
 この作品の言い知れようのない不快感は何に由来しているのだろうかと考えてみたのだが、それは同じ内容をいくらでも繰り返す「執拗さ」なのだと感じる。

 初見でこの作品を読んだとき驚いたのが、眠らされている一人の女との一晩の関係性を描いているのではなく、主人公の江口は、その後も通い続け、作品としては第5夜まで描かれているということだ。
 作品は、その一からその五まで全5章で構成され、1章ごとに一晩が描かれている。
 作品の主題は最初の1章だけで十分描かれている。残りの4章は蛇足でしかない。
 1章だけであれば、この作品は、頽廃的な耽美主義の秀逸な短編として完成していただろう。しかし、川端の目指していたのは、そのような耽美主義の作品ではなかった。つまり、一晩の話で物語を終わらせていれば、三島由紀夫の論評に従えば、デカダン気取りの大正文学並みの作品にしかならなかったということだ。

 川端は一晩の頽廃的美でこの作品を終わらせる代わりに、執拗なまでに同じ退廃を繰り返し繰り返し描いていった。まさに「熟れすぎた腐臭」が漂うのは、この執拗なまでの繰り返しに由来している。

 人間の欲望は、醜悪なものも含めて、しばしば芸術の主題となってきた。したがって、女性の肉体をただの「物」として、純粋な肉体的官能に溺れたいという頽廃的欲望を描くことは、作品としては形式美になり得る。しかし、頽廃的欲望を何度も執拗に描くことは、作品としては醜悪でしかない。そして、この作品は、読者にこの「醜悪」を見せることを意図しているのだと思う。

 読んでいて感じる不快感は、男の、しかも欲の枯れ始めた年老いた男の頽廃的欲望を、いつ終わるとも分からないまま、同じ繰り返しを見せられることから来ている。
 しかし、それも少女の突然の死によって幕を閉じる。物語はここで終わるが、頽廃的な欲望の繰り返しは、その後も何事もなかったかのように続いていくことが示唆されている。

 「ああ。」と江口はながめた。
 黒い娘を運び出すらしい車の音が聞こえて遠ざかった。福良老人の死体がつれ去られた、あのあやしげな温泉宿へ運ばれて行ったのだろうか。

 老人江口は今ここで起きたことが、この宿の営みに何ら影響を与えないことを知ったのだ。少女の突然の死というのは過去にも起きた類似の出来事の再現でしかない。
 宿の女将は言う。まだ少女は一人残っていると。そして、江口老人にそのまま休んでいなさいと告げる。
 この頽廃は繰り返されるのだ。この繰り返しこそが醜悪なのだ。一時の頽廃に酔うことは、美意識ですらある。しかし、それは若い時にしかできないことだ。
 人間としての活力を失った老人には、頽廃の中に留まることしか為す術が残されていない。頽廃だけが選択肢なのだ。

 そして、この秘密の宿は、人間としての活力を失った、すなわち、男として不能になった老人に、官能的腐爛に浸ることのできる場を整えてやっているのだ。
 この宿では、二重の意味で生きる活力を奪われている。女は睡眠薬を飲まされ、全く深い眠りの中で意識を失っているという点で、精神的な結びつきや会話による感情の交流の機会を失っている。
 そして、男は老齢によって肉体的に枯れているという点で、肉体的な結びつきの機会を失っている。
 ここで残されたものとは、一体何か。それは、男の精神世界だけだ。純粋に精神の世界だけが抉り出されて、その中の頽廃的な性欲だけがあぶり出される仕組みになっている。

 ここで描かれているのは精神的な荒廃ではないし、肉体的な堕落でもない。老いて気力も体力も失った枯れた男の中にある、それでも残っている生きる活力のない枯凋した「欲望」だ。人間にとってこれほど醜悪なものがあるか。そして、川端はこの醜悪を執拗なまでに繰り返し描くのだ。

 江口は眠らされた女の裸体を抱きながら、過去の女や母親の思い出に浸っていく。全く後ろ向きな、「生への活力」とは全く無縁な「性への欲望」。
 人間の「生」と「性」とは、こうまでも業なものなのか。

 『眠れる美女』は、読んでいて本当に不快極まりない作品だ。
 ここまで純粋な醜悪さを抉り出した作品は他に類がない。しかも芸術的主題としての醜悪さではなく、いかにも些末で、人間的な卑近な醜悪さだ。
 この不快さは、誰もが抱えている性欲という業と年老いていくことへの恐怖の裏返しなのかもしれない。それをまざまざと見せつけられるのが、この作品の恐ろしさなのだろう。