倫理を普遍的に問う
みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第十九回です。
これまで、哲学とは何をするものなのかについて考えてきました。
哲学は、目の前にある個別の現象を超えて、その背後にある普遍的なものは何なのかを問いかけます。
たとえば、「私たちは何を知ることができるのか」と考えるとき、単に「人によって知ることができるものは違う」と確認して終わるのではありません。
なぜ、知ることのできるものが異なる人どうしが、それでも同じ世界について語ることができるのか。
なぜ、異なる主観を持つ人間が、互いの経験を比較し、理解し、議論することができるのか。
そこには、私たちに共通する構造や、普遍的なものが存在するのか。
哲学は、このように個別の事実から、その背後にある普遍性を問い続けます。
そして、哲学が倫理を問題にするときも、この姿勢は変わりません。
では、倫理を考えるとき、その背後には普遍的に問うための根拠が何かあるのでしょうか。
今回はこの問いを手がかりに、「倫理を普遍的に問う」とは、そもそもどういうことなのかを考えてみましょう。
倫理の相対性を考える
倫理について考えると、まず一つの事実に気づきます。
人によって、善いと思うことも悪いと思うことも違っているということです。
たとえば、ある人は「家族を何よりも大切にすること」が善いと考えるかもしれません。
一方で、別の人は「家族よりも自分自身の人生を優先してよい」と考えるかもしれません。
また、ある社会では個人の自由が非常に重視され、別の社会では共同体の秩序や伝統がより重視されることもあります。
昔は当然だと思われていたことが、現在では問題視されることもあります。
こうした違いを見て、
「結局、善悪なんて人それぞれなのではないか」
「倫理に普遍的な基準など存在しないのではないか」
と考えることもできそうです。
これは、いわゆる倫理的相対主義につながる考え方です。
しかし、ここで注意しなければならないことがあります。
「人によって倫理観が違う」という事実と、「だから倫理を普遍的に議論することはできない」という主張は、同じことではありません。
これは非常に重要な違いです。
たとえば、目の前に一枚の絵があるとします。
ある人はその絵を美しいと感じ、別の人はくだらないと感じるかもしれません。
しかし、だからといって、「その絵について普遍的な議論ができない」とは限りません。
少なくとも、目の前に一枚の絵が存在していること、その絵が美を問う対象となっていることについては、私たちは共有することができます。
そして、
「なぜ私はこの絵を美しいと感じるのか」
「美しいとは、そもそもどういうことなのか」
「美について、個人の好みを超えて語ることはできるのか」
といった問いを立てることもできます。
つまり、人々の認識や評価が異なることと、その対象について普遍的に議論できるかどうかは、別の問題なのです。
同じように、
「ある文化ではAが善とされ、別の文化ではBが善とされている」
という事実から、
「だから倫理を普遍的に議論することはできない」
という結論を導くことはできません。
倫理の成り立つ根拠を探ること
もちろん、文化や時代によって倫理観が異なることは重要な事実です。
では、その違いを私たちはどのように考えればよいのでしょうか。
たとえば、ある社会では個人の自由が強く尊重され、別の社会では家族や共同体への義務が強く求められているとします。
この違いを見て、
「文化が違うのだから、どちらが正しいとも言えない」
と結論することは、一見すると公平な態度に思えます。
しかし、哲学はそこで思考を止めません。
なぜなら、そこにはさらに、
「なぜ文化が違えば、善悪の基準も違ってよいのか」
という問いが残っているからです。
「その文化ではそう考えられているから」という答えは、その社会にどのような倫理観が存在するのかを説明しているにすぎません。
しかし、倫理観の多様性を事実として認めることと、それを肯定することとは別問題です。本来は、その手前で以下のような問いを検証する必要があります。
- なぜ倫理観は文化や時代によって異なるのか。
- 倫理観が多様であること自体は、正しいことなのか、間違っていることなのか。
- 異なる倫理観のあいだに優劣は存在するのか、またそれを評価すること自体が可能なのか。
「人それぞれだから正解はない」とする素朴な相対主義は、こうした本質的な問いをうやむやにしてしまいます。前提の妥当性を問うことを放棄する姿勢は、哲学的な思考停止に他なりません。
では、逆に、文化や時代を超えて成り立つ普遍的な倫理を考えることはできるのでしょうか。
たとえば、「嘘をつくことは悪い」というどこの社会にもあるありふれた規範を例に考えてみましょう。
嘘は人間関係を壊すことがあり、嘘が横行すれば約束や信頼そのものが成り立たなくなります。
そのため、「嘘をつくことは悪い」という倫理的規範は、時代や地域を超えて比較的広く見られるものだと言えるでしょう。そこには、一定の合理的な根拠がありそうです。
しかし、だからといって、「どんな嘘も悪い」と簡単に結論することはできません。
人を傷つけないための嘘や、誰かを危険から守るための嘘もあるからです。
すると、私たちはさらに問いを深めることになります。
「なぜ嘘は悪いのか」
「何が嘘を悪くするのか」
「どのような場合なら、例外が認められるのか」
ここで問題になっているのは、個々の倫理的判断そのものではありません。
その判断を正当化している根拠や原理は何なのか、ということです。
そして、哲学が問おうとするのは、個々の倫理的判断のさらに先にある問題です。
なぜ、ある行為を善い、あるいは悪いと判断するのか。
倫理的判断を行うこと自体は、人間の本質に属することがらなのか。
そして、倫理自体が存在していることの意味とはなにか。
つまり、倫理を哲学的に考えるとは、単に「人々が何を善いと考えているのか」を調べることではありません。
どのように人は善悪を判断するのか。その判断にはどのような根拠があるのか。
そして、さらに、そのような個々の倫理的な判断を超えて、倫理そのものが成り立つ根拠を探ることなのです。
普遍的妥当性を追求すること
倫理の基盤を求める問いには、さらに興味深い問題があります。
仮に、「普遍的な倫理など存在しない」と主張するとしましょう。
もし、それが「私は倫理の多様性を尊重したい」という意味で言われているなら、それは一人の人間の価値観にすぎません。
しかし、「人間にとって普遍的な倫理は存在しない」と主張するのであれば、それはすべての人間について成立する一般的な主張です。
つまり、「普遍的な倫理は存在しない」という主張そのものが、ある意味では普遍性を要求しているのです。
ここに、倫理について考えるときの難しさがあります。
「善悪は人それぞれだ」という言葉も、それを単なる事実として言っているのか、それとも「善悪について普遍的な基準は存在しない」という哲学的主張として言っているのかで、意味は大きく異なります。
後者であるなら、なぜそのように言えるのか、その根拠を示さなければなりません。
倫理の普遍性を主張する際も、あるいは、それを否定する際にも、普遍的な根拠に基づいた議論が要求されるのです。
倫理を議論するための土台を作ること
ここで誤解してはいけないのは、哲学は「何が正しい倫理なのか」を決めることではない、という点です。
哲学が行っているのは、倫理を議論するための土台を築くことです。
哲学の態度は、何が正しく何が間違っているのかを決めることではありません。また、「普遍的な倫理があるはずだ」と信じ込むことでも、「倫理はすべて相対的だ」と諦めることでもありません。
そうではなく、何かを正しい、あるいは間違っていると判断するときの根拠とは何かを問い、さらに
「普遍的な倫理とは何か」を問うことです。
もし存在するなら「なぜそれが普遍的なのか」を問い、
もし存在しないのなら「なぜ存在しないと言えるのか」を、問い続けることです。
倫理は善悪の判断に関わるものであり、その倫理観を持つ本人にとっては、自分の判断を絶対視しやすくなります。
だからこそ、哲学は倫理の根拠を問い続けようとするのです。
倫理を考えることは、自分の価値観を疑うこと
さて、ここまでの話を踏まえて、最初の問いをもう一度考えてみましょう。
倫理を普遍的に問うとは、どういうことなのでしょうか。
普遍的な倫理を主張する立場も、倫理の相対性を主張する立場も存在します。
しかし哲学的に探求するならば、どちらの立場に対してもその根拠を問い直さなければなりません。
単に「人によって考え方が違う」という事実を確認するだけでは、十分ではないのです。
倫理について考えるとき、個々の立場の違いを超えて、普遍的に次のように問いかけることができます。
- 私たちは、そもそも、なぜ物事について「善い」「悪い」という判断をするのでしょうか。
- その判断は、何を根拠に正当化されるのでしょうか。
- その正当性には、普遍性があるのでしょうか。それとも、特定の人や文化にしか通用しないものなのでしょうか。
- 倫理そのものは、普遍的であるべきでしょうか。それとも多様であるべきでしょうか。
そして、最も重要なことは、自分自身の判断基準を疑うことです。
自分が持っている倫理的な判断を支えている理由を、自分自身で問い直し続けること。
倫理を哲学するということは、こうした問いを、他人だけでなく自分自身の価値観にも向けることなのです。
- 倫理が時代や文化によって多様であるという事実
- 普遍的な倫理を主張する立場も、倫理の相対性を主張する立場も存在するという事実
そうした立場の違いが存在することを認めた上で、それでもなお共通して成立する事実は何か。
それを問うことが、普遍性を問うということです。
哲学は、そこまで問い続けるものなのです。
それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。




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