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【自分の頭で考える哲学】第3回 ― 私とは何か

哲学談戯

私とは何か

みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第三回です。

前回は、「個物とは何か」というテーマについて考えました。

私たちは普段、世界を独立した一つひとつの「もの」として認識しています。しかし、その「もの」は決して自明な存在ではありませんでした。

私たちが当然あると思っている「もの」は、実は境界の曖昧な存在だったのです。

そして、このことは、自分自身についても同じように問い直すことができます。

「私」という存在は、本当に自明なものなのでしょうか。

今回は、「私とは何か」という問いについて考えてみたいと思います。

「私」とは誰のことだろう

自分自身の存在は、誰にとってもあまりにも当然なものです。

おそらく、自分が存在していることを疑う人はいないでしょう。

そして、多くの人は、
「私のことは、私自身が一番よく知っている」
と考えています。

しかし、あらためて「あなたとは誰のことですか」と尋ねられたとき、私たちは本当に自分自身を明確に説明できるのでしょうか。

まずは、一つ思考実験をしてみましょう。

あなたは見知らぬ国を旅行しています。

ところが、財布やパスポート、運転免許証など、自分を証明するための書類をすべて失ってしまいました。
その国には初めて来たため、あなたを知っている人は一人もいません。さらに、不運にも家族や友人と連絡を取る手段まで失ってしまいました。

そこで役所へ行き、身分証明書を再発行してもらおうとします。

さて、このとき、あなたは「自分が自分自身であること」を証明できるでしょうか。

私を言葉で説明できるだろうか

まず、多くの人は、自分についてさまざまな属性を説明するでしょう。

名前を言う。
年齢を言う。
職業を言う。

こうした情報を積み重ねれば、自分自身を十分に表現できるように思えます。

しかし、本当にそうでしょうか。

たとえば、「日本人」という言葉は一億人以上の人に当てはまります。
「男性」もそうです。
「女性」もそうです。
「会社員」もそうです。

どんな言葉を選んでも、それは必ず他の誰かにも当てはまります。

では、条件をさらに増やせばどうでしょう。

趣味を言う。
性格を説明する。
これまでの経歴を語る。

このように特徴を組み合わせれば、対象をかなり限定できるかもしれません。

しかし、それでも使われているのは、「旅が好き」「几帳面な性格」「さまざまな国を訪れてきた」といった一般的な言葉です。

つまり、どれほど多くの説明を積み重ねても、それは一般的な概念を組み合わせているだけなのです。

そして、その組み合わせは「私そのもの」ではありません。

言葉という一般的な概念によって、あなた自身の存在を指し示すことはできるでしょうか。

ここで、もう一つ例を出して、考えてみましょう。

あなたは、身分証明書をすべてマイナンバーカードに一本化しました。しかし、そのカードを紛失してしまったとします。
市役所へ再発行を申請しに行っても、自分を証明する書類は一つもありません。生体認証も取っていなかったとします。

そのとき、あなたは何を説明すれば、「自分が自分自身である」と証明できるでしょうか。

どれほど言葉を尽くせば、それで十分なのでしょうか。

私は言葉にならない

ここで、一つの不思議な事実に気づきます。

私たちは、自分自身について語ることはできます。

しかし、自分自身そのものを言葉にすることはできません。

なぜなら、言葉にした瞬間、それは概念になるからです。

概念とは、多くのものに共通する性質をまとめたものです。

だから、言葉は必ず一般化されます。

一般化されたものは、一つの固有の実存だけに当てはまるものではありません。同じ性質をもつ他のものにも適用でき、私たちの間で共有できるものです。

しかし、「私」という存在そのものは共有できません。

私の経験は、私だけのものです。
私の意識は、私だけのものです。
私が今この瞬間に生きているという事実も、私だけのものです。

だから、「私そのもの」を概念として表すことはできないのです。

「私」という存在は、言葉以前に、端的な事実として把握されるしかないものなのです。

私が知っている「私」とは何か

私たちは、自分について考えるときも言葉を使っています。

「私はこういう人間だ。」
「私はこういう性格だ。」
「私はこう考えている。」

このように、自分自身を理解するときでさえ、私たちは言葉によって自分を捉えています。

つまり、自分が知っている「私」もまた、言葉によって説明された「私」なのです。

その意味では、他人が理解している「私」と本質的な違いはありません。

どちらも、言葉によって表現された「私」だからです。

しかし、その言葉の奥には、まだ言葉になっていない「私」がいます。

「実存」という言葉によって、哲学が問いかけるのは、その存在です。

あなたが実際に経験している「私」とは何でしょうか。

言葉で説明される自分でしょうか。

それとも、どんな言葉でも捉えきれない、生きられている存在そのものでしょうか。

もし後者だとするなら、私たちは自分自身についてさえ、まだほとんど何も知らないのかもしれません。

言葉は、「私について」語ることはできます。
しかし、「私そのもの」を語ることはできないのです。

それでは、今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。

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