ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』
Gaston Leroux, Le Fantôme de l’Opéra, 1910
ゴシックとロマン──近代が排除するものへの視線
『オペラ座の怪人』(1910)は、怪奇小説、あるいはゴシックロマンとして知られている。しかし文学史的に眺めると、この作品は19世紀的ロマン主義の残響と、20世紀的近代小説の感性とが交差する、きわめて興味深い位置に立っている。
作者のガストン・ルルーは、作家になる前は、新聞記者としてキャリアを積んでいる。その出自は、この小説の語りの形式に色濃く反映している。
物語はあくまで「実在の事件」を調査した記録の体裁を取り、証言や資料、回想が組み合わされる。この疑似ドキュメンタリー的手法は、ゴシック小説の伝統を継承しつつも、探偵小説的合理性を導入することで、怪異を単なる幻想としては終わらせない。仮面の怪人エリックは幽霊──原題のファントム(fantôme)という言葉は、「怪人」ではなく「幽霊」の意味──ではなく、説明可能な存在として提示される。その合理化の姿勢は、世紀の転換期に隆盛する推理小説の文脈ともつながっている。ちなみに、ガストン・ルルーは、この作品の前に『黄色い部屋の秘密』という推理小説を書いている。
舞台は、現実のパリに存在するオペラ座──パレ・ガルニエである。この壮麗な建築は、第二帝政の権威と華美を象徴する一方で、地下に広がる迷宮的空間によって、近代都市が抱える「二重性」を体現している。
地上の舞台が光と名声に満ちた可視の世界であるのに対し、地下は人々の目から切り離された不可視の領域として存在する。作中で示唆されるように、この地下空間はパリ・コミューン期に牢獄として利用された過去を持ち、容易に人の立ち入れない閉ざされた場所として描かれている。実際、この劇場自体もパリ・コミューンの戦闘に巻き込まれた歴史を有している。
エリックは、この地下に棲む存在として造形される。彼は音楽という純粋な芸術を渇望しながらも、その身体ゆえに社会から排除され、地上の世界から切り離されている。
この構図において浮かび上がるのは、近代社会が内包する構造的対立だ。すなわち、「理性」と「狂気」、そして「秩序」と「排除」という対立が、この空間配置の中に凝縮されているのである。
そもそもゴシック小説(ゴシックロマン)とは、18世紀後半のイギリスにおいて、理性万能を掲げた啓蒙主義への反動として生まれた文学形式である。『オトラント城奇譚』(1764)に始まり、『フランケンシュタイン』(1818)に連なる作品群のなかでは、恐怖や怪異、崇高、退廃といった要素が、単なる娯楽としてではなく、「理性では捉えきれないもの」を可視化する装置として機能する。廃城や地下迷宮といった空間は、単なる舞台ではなく、人間の内面や社会の抑圧構造の象徴なのだ。
文学史的に見れば、本作は明らかにゴシック小説の系譜に連なる。醜い外貌、地下の住処、若き女性への執着──これらは明らかにゴシック的モチーフである。
しかし決定的に異なるのは、怪物が倫理的・心理的内面を与えられている点だ。エリックは単なる恐怖の装置ではない。彼は愛を知り、拒絶に苦しみ、自らの暴力性と葛藤する存在として描かれる。その内面化は、怪物を「他者」から「悲劇的主体」へと変容させる。
怪異はもはや外部の超自然ではなく、人間の内部、あるいは社会の構造そのものから立ち上がるものへと変化している。怪人エリックとは、近代が生み出した「見えない存在」の象徴にほかならない。
この点で、『オペラ座の怪人』はロマン主義の末裔でもある。醜さのうちに崇高を見いだす視線は、ユゴー的想像力の延長線上にある。だが同時に、それは近代の心理小説へと歩み寄っている。エリックの孤独は社会構造の産物であり、彼の暴力は愛の歪みとして説明される。恐怖は、社会的排除と欲望の帰結として現れるのである。
ゴシック小説にしろ、ロマン主義にしろ、啓蒙の思想から排除されてしまった人間の情念──明晰な理性からは決して捉えられないもの──を描こうとした点は共通している。
エリックの存在は、その典型だ。彼は、近代が掲げる「自由・平等・博愛」という理念の外側に押し出された異端者だった。むしろ、彼の存在は、社会が自分たちを正しいと規定するためにこそ必要とされた被差別者だったと言える。社会──特に近代以降の──は、自らの価値に合わないものを異端者として、潜在的に排除することで成立している。そして、人々は、意識的にせよ無意識的にせよ、そのことへ不安と罪悪感を抱えて生きていくことになる。だからこそ、エリックのような存在をどのように位置づけるのかという問いは、近代文学の一つの課題として立ち現れているのだ。
仮面の象徴するもの
興味深いのは、この物語が最終的に「愛の勝利」でも「怪物の完全な救済」でも終わらない点にある。エリックは退場し、秩序は回復される。しかし読者の記憶に残るのは、彼の地下の部屋と、そこで鳴り響いた音楽の余韻である。光の側に立つ者たちは幸福を得るが、地下に沈んだ者の声は消えない。その余韻こそが、この作品を単なる娯楽小説以上のものにしている。
果たして、排除された者たちに救いはあったのだろうか?
結局、排除された者たちは、なんらかの「救い」にすがる他ない。怪人エリックにとって、それは、クリスティーヌ・ダーエへの愛であったが、それは、近代の秩序──その象徴として描かれるパリのオペラ座──をすべて爆破するという自己破滅的な方法でしか実現しえないものだった。
しかし、この「救い」は、クリスティーヌの献身によって実現することになる。彼女は、自らの人生を犠牲にして、エリックと生きることを選択する。それは愛とは言えなかったかもしれないが、憐れみによる自己犠牲であった。そして、その精神は本物だった。それは、イエス・キリストが十字架に架かる際に体現した精神である。死なずにエリックを待っていたーーこのときの姿にキリスト像が重ね合わされている。『キリストのまねび』を静かに読んでいる姿からもそれは示唆されている。
この献身の精神によって、エリックは初めて「救い」を得るのである。それは絶望的な苦しみを背負う「救い」であるが。社会から排除された異端者は、結局のところ、自らの存在を社会から切り離すこと、すなわち、自らを排除してきた社会への執着を離れることによって、自らを自由にするとともに、救われるのである。しかし、それは近代社会にとっての救いであると言うよりは、悲劇である。
この物語の結末は、近代社会に特有の不安を浮かび上がらせている。
異端者への罪悪感と、自らもいつ異端者へと陥ってしまうか分からないという怖れは、近代以降人々の間に纏わり続けている。仮面はその不安の象徴だろう。人は誰しもが仮面をつけている。仮面があるうちは、自らを社会の一員として振る舞うことができる。しかし、一度(ひとたび)仮面を失ってしまえば、異端者であり、差別と排除の対象へと転じてしまう。エリックの仮面は、脆く薄いものだったが、我々の仮面も決して強固なものとは言えないのだ。
20世紀に入ると、本作は数多くの翻案を生み、特に舞台芸術の領域で再生産され続けた。その代表例が、作曲家アンドリュー・ロイド・ウェバーによる1986年初演の『The Phantom of the Opera』である。原作のゴシック性はロマンティックな旋律によって増幅され、怪人はより一層、悲劇的ヒーローとして愛される存在になった。この受容史は、原作が持つ「怪物への共感」という近代的感性が、いかに強靱であったかを示している。
結局のところ、『オペラ座の怪人』は境界の文学である。怪物と人間、地上と地下、理性と情念、19世紀と20世紀。そのいずれにも完全には属さず、その間合いに身を置き続ける。その曖昧さが、物語を古びさせない。怪人の仮面が象徴するのは、それらの境界、特に、排除するものと排除されるものの差が、極めて脆いことである。近代が生んだこの分裂は、いまだに私たちの問題でもある。
だからこそ、この小説は単なる怪奇譚では終わらない。そこには、近代という時代に地下へと排除された異端者を照らし出す、ひとつの文学的装置なのである。
ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』光文社古典新訳文庫 (2013)



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