ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫 (2005)
Michael Ende, Momo, 1973
ミヒャエル・エンデ『モモ』の時間哲学を深堀りする
物象化される時間と質的に生きられる時間
日々ますます効率化されていく時間のなかで、大切な「いま」を見失いつつある現代人の生き方を、痛切に問いかけるミヒャエル・エンデの童話『モモ』──
この物語の時間哲学を掘り下げると、そこにあるのは単なる「時間の効率化」への批判ではない。浮かび上がってくるのは、時間がもつ二つの側面、すなわち〈数量化できる時間〉と〈体験としてしか感じられない質的な時間〉の対立である。そして問われているのは、私たちがそのどちらを基準に生きているのか、という問題だ。
時間には、時計で測ることのできる側面がある。何時間何分何秒という形で分割され、計算され、管理される時間だ。
一方で、時間には、体験としてしか存在しない質的な側面がある。誰かと語り合うひとときや、遊びに没頭する瞬間のように、長さではなく密度で感じられる時間である。
時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。
p83
時間と資本主義
現代社会では、時間は正確に測定され、細かく管理され、その枠組みのなかで私たちは生活している。では、この「測ることのできる時間」、すなわち数量化された時間は、私たちの生に何をもたらしているのだろうか。
ミヒャエル・エンデが突きつける問いの核心は、まさにこの点にある。彼が批判的に描くのは、「時間=貨幣」という等式である。
灰色の男たちは繰り返す。
「時間を節約すれば、将来もっと多くの時間が手に入る」と。
そして、無駄にされた時間を何時間何分何秒とすべて数えあげていく(数量化する)。
この論理は、資本主義の基本原理──現在を犠牲にすれば未来の富が増える──を、時間という最も普遍的な資源に置き換えたものにほかならない。
その象徴が「時間貯蓄銀行」という設定である。時間は計量され、「もの」として扱われる。物象化された時間は取引の対象となり、預ければ利子付きで返ってくると約束される。
だが、時間は本当に「もの」なのだろうか。
私たちは時間を測り、管理する。しかしそれは、時間を「もののように扱う仕組み」を作り上げただけであって、時間そのものが物質化されたわけではない。失われた時間は二度と戻らない。時間はその瞬間ごとに現れては消えていく、質的な出来事だからである。
物語の中でも、預けられた時間は決して返ってこない。それは灰色の男たちの命を延ばす燃料へと変換されてしまうからだ。
この構造は、驚くほど現代的だ。
私たちは「生産性向上」「効率化」「投資」という名のもとに、無数の「いま」を差し出している。しかし、その成果の多くは企業や市場、あるいは別の誰かの利益へと回収され、自分の生の実感としてはほとんど残らない。
『モモ』が示すのは、時間を数量として扱うか、経験として生きるかという分岐点である。そしてその選択は、単なる生活技術の問題ではなく、人間がどのように存在するかという根源的な問いに直結している。
質的な時間を生きる
エンデは「もの化」された時間に対して質としての時間を示して見せる。エンデの時間観の核心は、次の一節に凝縮されている。
時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。
p106
でも、それをはっきり感じはじめていたのは、子どもたちでした。というのは、子どもにかまってくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。
けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。
ここで言う「いのち」とは、単なる寿命の長さではない。感じ、味わい、誰かと共に在るという質的な生である。だからこそ、時間を節約すればするほど、生活はやせ細っていく。遊びが消え、会話が短くなり、散歩やぼんやりする時間が削られていく。その結果、「心」が住む場所そのものが縮小していく。
灰色の男たちが奪っているのは、まさにこの質的な時間である。時間を数値化し、物質化し、商品として扱うことで、人間から「体験としての時間」を切り離してしまうのだ。
物語後半、時間の国のマイスター・ホラが見せる「時間の花」の場面は、この思想の頂点にあたる。毎秒ごとに生まれては消えていく黄金の花。それは各人の本当の時間であり、瞬間ごとに立ち現れては消えていく命の顕現である。
ここに示されているのは、時間は客観的に測られる対象ではなく、「今」においてしか存在しないという実存的な時間観だ。時間は未来に蓄積されるものではない。現在においてのみ、生きられるものである。
それに対して、灰色の男たちの時間は「貯蔵」され、「未来」に先送りされる。しかし、その未来は決して訪れない。なぜなら彼らは、他者の現在を吸い尽くすことでしか存在できない寄生的な生だからだ。
この構図は、現代の「遅延された充足」の幻想を思わせる。
いつかリタイアしたら。いつか経済的自由を得たら。いつか余裕ができたら。だが、その「いつか」は常に後ろへとずれていく。
モモが最後に灰色の男たちを打ち破る方法も、この時間哲学の帰結である。彼女はマイスター・ホラから「待つ」ことを求められる。眠りの中で、一年の間「今ここ」に留まり続ける。灰色の男たちは待つことができない。彼らにとって時間は、消費されるか貯蔵されるかのどちらかでしかないからだ。純粋な現在に身を置くことに耐えられない。
待つこと。聴くこと。ただ在ること。
それこそが、時間を盗まれない唯一の方法であり、同時に時間をもっとも豊かに生きる方法でもある。
質的な時間を忘れた大人たちへ、そして、質的な時間を生きる子どもたちへ
いま、この物語の予言性はさらに色濃くなっている。「タイパ」「生産性至上主義」「24時間経済」「常時接続されるインターネット」という環境のなかで、私たちは自ら灰色のスーツをまとい、他人に「時間を節約しなさい」とささやいてはいないだろうか。そして同時に、自分自身にも同じ言葉を投げかけ続けてはいないだろうか。
しかし、ここで忘れてならないことは、この作品が童話だということである。あくまでも子どもに語られた物語なのだ。
なぜ童話という形式なのか。
それは、質的に生きることの大切さを知っていても、私たちは数量化された時間の世界から完全に逃れることはできないからだ。効率や管理の枠組みのなかで生きざるを得ないという現実もまた、否定できない。
だからこそ必要なのは、その枠組みの外に出ることではなく、子どもの頃のように質的な時間を生きていた感覚を、わずかでも取り戻すための「時間」を意識的につくることだ。すでに「時間泥棒」の論理を内面化してしまった大人が、生き方を一挙に変えることは難しい。だからこそ、せめて小さな裂け目をつくる。
そして、これが童話として語られたことの意味なのだと思う。子どもたちには、いまを生きていることの大切さを、そして、大人たちには、質的に生きることが可能であった子どもの時代がいかに貴重なものであったのかを思い出させてくれる物語なのだ。
もう一度、モモのように星空の音楽に耳を澄ませてみよう。
時計を見ずに。通知を切って。
「あとで」ではなく、「今」ここで。
それが『モモ』の示す、もっとも単純で、そしてもっとも困難な時間哲学なのだ。
ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫


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