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【科学思想史】医学の歴史 – ヒポクラテス, ガレノス, ハーヴェイ

ヒポクラテス

 医学の歴史は、ヒポクラテスから始まる。紀元前460年ごろ、イオニアのコス島に生まれたと言われ、ギリシア各地を遍歴した。紀元前370年ごろに亡くなるまでに生涯に大量の著作を残したと言われている。

 ヒポクラテスによって医学の歴史が始まると言われるのは、彼が病気に関して宗教や呪術による説明を退けたことにある。彼は、病気の原因を神や霊といった超自然的な存在に求める考え方を否定した。

 自然現象を宗教や神話といった超自然的なものから説明するのではなく、自然という存在それだけから説明しようとする思考態度は、イオニアではすでに紀元前6世紀ごろから始まっていた。イオニアでは、紀元前6世紀から5世紀にかけて、自然だけを対象にして自然現象を説明しようする自然哲学者が多く現れ、イオニア自然学派と呼ばれた。

 ヒポクラテスが宗教や呪術による説明を退けたのは、イオニア自然学派の流れを汲んだものだが、その自然哲学者たちが考えていたような理論も同時に否定している。
 自然哲学者たちは、自然を構成する要素の均衡が崩れたときに病気が起こると考えていた。エンペドクレスの唱えた空気、水、火、土の四大元素や、クロトンのアルクマイオンが主張した熱、冷、乾、湿といった4要素の均衡が崩れることが病の原因とされた。
 それに対し、ヒポクラテスは病の原因を食事、環境、生活習慣にあると主張した。治療においては、診療後の経過、すなわち予後(prognosis)の観察を重視し、効果的な治療法に関する経験値を高めていった。

 恐ろしいほど現代的な発想だが、当然、時代的な限界もあった。古代ギリシアでは解剖が禁忌とされていたので、身体構造に関しては非常に思弁的な理解をしていた。ヒポクラテスは、古代ギリシアにおいて広く一般的に信じられていた四体液説を支持していた。
 四体液説は、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4種類を人間の基本体液とする考え方で、この均衡によって精神と身体が健全に保たれるとされた。この均衡が崩れた状態が病気である。
 したがって、心身の状態は、体液均衡の崩れた病気の状態か、均衡の取れた健康の状態か、どちらかしかないということになる。病気というのは、この体液の均衡が崩れた状態を指すのであり、それぞれの体の器官や部位の症状は関係がなく、体全体のことを捉えていた。個々の症状は、病気という状態が様々な形をとって現れたものと考えられていた。
 ヒポクラテスの医学は全体観的思想だったと言える。

ガレノス

 ヒポクラテスの四体液説を継承したのが、2世紀の古代ローマの医学者ガレノスである。ガレノスは観察を重視し、動物の解剖を通じて、生物の器官を詳細に調べた。解剖に使われた動物は、主に豚であったが、生物としての体の器官は、基本的に人間と同じという認識を示した。

 彼の医学理論の根底には、単一の造物主によって目的論的な自然(phusis)が創造されたという思想があった。古代ギリシアの実証的な精神や理性的な思考が失われていった中世においても、キリスト教徒やムスリムの学者たちが彼の見解を受け入れ、伝承していった理由の一つはこの点にあった。彼の説は、古代中世を通じて権威となり、ヒポクラテスの医学をルネサンスにまで伝えることになった。

 ガレノスの生命に関する根源的原理は「生気(プネマ)」(pneuma)と呼ばれる。彼によれば、生気には3種類あり、脳の中の動物精気(Pneuma physicon)が運動、知覚、感覚を司り、心臓の生命精気(Pneuma zoticon)が血液と体温を統御する。そして、肝臓にある自然精気は、栄養の摂取と代謝を司る。

 ガレノス自身は、血液は動脈と静脈との間で潮の満ち引きのようなことが起こると考えていた。まず、空気は肺から心臓へ流れ込み、心臓の出す熱の過剰を防ぐ。心臓はその伸縮によって血液を取り込む。静脈血は心臓の右側に流れ込むがその一部は、隔壁から浸み出して左心室に入り、ここで純化されて生命精気と混ざり合い、この混合物が動脈に流れていく。
 この考えは、17世紀にウィリアム・ハーヴェイが血液循環を発見するまで大きな影響力を保ち続けるのである。

血液循環論の発見

 イングランドの医師ハーヴェイは、1628年に『心臓の運動』を出版し、血液循環説を唱えた。彼は、血液は一種類で、なおかつ循環していると考えた。
 ハーヴェイは、心臓が送り出す血液の量を計算した。その計算の結果は、心臓は、一時間の間に人間の体重よりも重い量の血液を送り出しているというものだった。血液が体全体に不断に循環しているという仮説をとらない限り、この事実は説明がつけられなかったのである。

 この説は、伝統的な四体液説を真っ向から否定するものであり、発表当初は激しい批判を呼び起こした。だが、1630年代にはハーヴェイを支持する医師たちによって実験による検証が進められ、顕微鏡による毛細血管の存在が証明されることによって、この説は広く受け入れられるようになった。

 中世の宗教的な思弁的思考から脱し、実証に基づく医学の歴史は、17世紀から本格的に始まるのである。

参考図書

ハーバート・バターフィールド『近代科学の誕生(上)』講談社学術文庫
ハーバート・バターフィールド『近代科学の誕生(下)』講談社学術文庫