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「臨床の知」と生命倫理——経験に根ざした知性の可能性 – 中村雄二郎『臨床の知とは何か』

科学半解

中村雄二郎『臨床の知とは何か』(1992)

臨床の知の発見 —— 近代科学の限界ともう一つの現実

 近代科学は、普遍性・客観性・論理性を中心的な価値とし、世界を分析的に把握する方法を発展させてきた。この枠組みでは、現実は因果律に従う対象として切り分けられ、理論的仮説によって説明され、抽象化・一般化されることで「科学的知」が形成される。

 だが、このような知の構造が照らし出すのは、あくまで操作可能な現実にすぎないのではないか。近代科学の外部には、それとは異なる「現実」——すなわち、個別的・具体的・関係的にしか現れないような経験や意味があるのではないか。

 こうした問いを出発点として、中村雄二郎氏は「臨床の知」という概念を提示する。では、この「臨床の知」とは何を意味するのか。

 中村氏の定義に沿って要約すれば、「臨床の知」とは、科学的知とは異なり、個別の状況や文脈、さらには実存的な深層にまで踏み込む知のかたちである。そこでは、世界や他者が私たちに向けて発する「隠れた意味」や「徴候」を、身体的な関与と相互行為のなかで読み取り、応答していく態度が求められる。これは、抽象的な理論に還元されることのない、多義的かつ象徴的な世界に向き合う実践的知である。

 つまり、「臨床の知」は、一般性・一義性・論理性を重視する近代科学に対して、実存性・多義性・身体性を基盤とする知の形式として、明確な対照関係にある。それは、個々の現場で生起する「意味」の手ごたえを重視し、科学が捉えきれない「現実」と関わろうとする姿勢そのものなのだ。

 とはいえ、ここで重要なのは、この「臨床の知」が単なる実存主義的思考にとどまらないという点である。臨床の知は、たんに個の内面に沈潜することではなく、他者や世界との「応答的関係」のなかで成立する。ゆえにそれは、実存を重視しつつも、関係性・相互性・行為性に根ざした動的な知なのである。

 では、このような「臨床の知」は、いかなる課題や可能性を孕んでいるのか。そして、それは近代科学の補完にとどまらず、どのような意味でオルタナティブな知の形式たりうるのか——

生命の総体的把握へ —— 近代科学を越えて

 17世紀のヨーロッパにおいて、自然科学は急速な発展を遂げた。とりわけ天文学や物理学の分野では、実験・観測・数学的定式化といった方法論が確立され、科学的知は、因果律と再現可能性を基盤とした「普遍的な真理」を目指すようになる。これにより、中世的な目的論的世界観は退けられ、因果的かつ機械論的な世界観が支配的となった。この世界観は、近代科学の根本的な認識枠組みとして以後広く受け入れられていく。

 しかしこの枠組みは、生物という有機的存在を対象とする医学においては、すぐには適用されなかった。生命現象は、単なる因果的メカニズムとしては捉えがたい特性を備えていたからである。それでも19世紀以降、病理学の進展によって、症状と病因との因果的関係が解明され、やがて医学の分野にも機械論的世界観が浸透していった。身体は、徐々に分析可能な対象=「機械」として扱われるようになったのである。

 このような流れに対して、「臨床の知」はあらためて、生命を有機的かつ全体的に把握しようとする知的実践であると位置づけられるだろう。たしかに、病理学的知見は医療に大きな貢献を果たした。しかしそれは同時に、生命の総体的な在り方を見失わせる副作用をもたらした。いかに多くの因果関係を解明したところで、それが「生命」という一個の存在そのものを明らかにするわけではない。

 医療とは、本質的に「生命」を扱う営みである。にもかかわらず、その医療が、近代科学の枠内で生命の全体像を見失ってしまったとすれば、これは深刻なパラドックスである。本書における「臨床の知」の提案は、まさにこの点を指摘する。

 では、臨床の知はどのようにして可能となるのか。中村氏によれば、それは「直観」「経験」「類推」の積み重ねによって築かれる。ここで重視されるのが、「経験」という概念である。

 経験とは、本来、一回限りの固有な出来事であり、再現性や一般性を前提とする近代科学の方法論とは本質的に相容れない。科学的知は、仮説に基づく演繹的推論と反復可能な実験を通じて成立するが、その過程では、個別的で主観的な経験は曖昧なものとして退けられてきた。

 しかし、経験とは単なる主観の気まぐれではない。それは、自己の存在を発見する原初的な契機であり、自己理解の根拠でもある。つまり、経験は常に実存的な厚みをともなっており、その意味において、臨床の知は経験に根ざす知である

 ところが近代科学において、経験は測定可能なものとして外在化され、客体化されていく。これにより、経験は「外在的な事実」と「内在的な意味」とに分裂し、二重性を帯びることになる。この構造は、たとえばニュートンの光学理論(対象化された物理的光)と、ゲーテの色彩論(人間の感覚経験に根ざした色の世界像)の対立にも表れている。この対立は単なる「客観対主観」という構図ではなく、「対象化された科学的知」と「共同主観的な経験に基づく知」の対立なのである。

 このような背景を踏まえると、臨床の知が志向するのは、固有の経験の累積に支えられた、新たな「知の様式」である。近代科学が視覚中心の「まなざしの知」であるのに対し、臨床の知は、聴覚・触覚・嗅覚など複数の感覚の協働による「共通感覚的な知(sensus communis」に基づいている。ここで得られるのは、単なる認識(cognition)ではなく、感覚的世界に根ざした包括的な世界像(cosmology)である。

 臨床の知とは、この世界像に支えられた「経験的知性」であり、科学的知によって排除されてきたもう一つの知のかたちである。そこから立ち現れるのは、生命という不可視で多義的な現象に対する、応答的・実存的な知の可能性である。そしてこの知こそが、現代医療の盲点を補完し、生命倫理という新たな実践領域への扉を開く鍵となるのだ。

新たな生命倫理の問題 —— 臨床の知は何を照らし出すのか

 脳死をめぐる議論は、従来の「生」と「死」の境界を揺るがす、新たな倫理的課題を突きつけた。かつて明確だった生命の終わりの定義が、医学的・技術的進歩によって曖昧になった今、私たちは「何をもって死とみなすのか」という根源的な問いに向き合わざるを得なくなっている。

 アメリカでは、脳死をめぐる議論が「倫理」と「実用」の二極に分かれて進められている。一方には、臓器移植の促進や医療資源の効率的運用を重視する実用主義的アプローチがあり、他方には、臓器提供によって他者の命を救うという人道主義的倫理がある。だが、両者に共通して浮上するのは、提供者の意思をいかに尊重し担保するかという問題である。ここでは、「人格の尊厳」や「意思決定能力の扱い方」など、従来の枠組みでは処理しきれない新たな倫理的課題が問われている。

 一方、日本では事情が異なる。医療技術の進歩にともない、技術的な実用主義だけが先行し、倫理的枠組みの整備が後れを取っているのが現状である。日本社会は、矛盾する価値観を緩やかに併存させる文化的特性を持つため、理論的な対立をあえて回避し、曖昧さの中で事態を処理しようとする傾向がある。そのため、社会的合意の形成は遅れがちで、議論の核心が曖昧なまま棚上げされる状況が続いている。生命にかかわる決断が、熟議されることなく「慎重論」の名のもとに先送りされているのである。

 このような背景のなかで、「説明と同意(informed consent)」は、医療現場に新たな倫理的緊張をもたらしている。特に、重大な結果責任を伴う治療において、最終的な判断を誰が下すのか——すなわち、誰が「責任主体」たりうるのかが問題となっている。医師と患者が対等な責任主体として相互に関係を結ぶためには、単なる情報提供や形式的な同意ではなく、信頼に基づいた対話的プロセスが必要とされる。

 しかし現実には、この関係性の構築を阻む二つの傾向が存在する。一つは、父権的な保護主義に基づく代理同意の構造であり、もう一つは、母権的な包摂主義によって責任の所在が曖昧になる構造である。日本では後者の傾向が特に顕著であり、医療判断が「雰囲気」や「場の空気」に流されやすい。その結果、医師・患者・家族のあいだで決定主体が不明確なまま医療行為が進められ、誰も責任を明確に引き受けないという事態が生じる。ここでは、「自己決定」も「責任倫理」も、制度的にも文化的にも成立しにくい構造的問題が露呈している。

 このように現代医療の現場では、死の定義、同意の在り方、責任の所在といった複雑かつ実存的な問いが交錯している。では、こうした難題に対して、「臨床の知」はどのように応答できるのだろうか。

 臨床の知は、単なるルールや手続きによる合意形成とは異なる次元に位置する。それは、経験的な感受性と相互行為に基づいて、具体的な関係性のなかで意味を立ち上げていく知のかたちである。脳死やインフォームド・コンセントのような問題は、抽象的な倫理原則だけでは処理しきれない「生の実感」や「死の手ごたえ」に深く関わっている。臨床の知は、まさにそうした個別の現場で生じる具体的な状況に即して、身体的・感覚的・象徴的なレベルで意味を読み取り、応答しようとする。

 したがって、臨床の知は、生命倫理の諸問題に対して、理論的な一貫性ではなく、「関係の中での応答可能性」を重視する新たな倫理のかたちを提案するものである。それは、経験の累積によって立ち上がる関係知として、既存の倫理体系の補完や代替として機能しうる。そして何よりも、そこでは生命を単なる対象としてではなく、「応答すべき他者」として捉える倫理的感受性が求められているのだ。

臨床知の役割と今後 —— 経験の知をいかに理論化するか

 医療という現場に根ざした具体的な知性によって生命倫理を捉え直す作業は、現代においてかつてないほど重要性を増している。なぜなら、近代科学や制度的倫理では捉えきれない、具体的かつ関係的な「生の現場」の課題が次々と噴出しているからである。そうした文脈において、本書が提示する「臨床の知」は、まさに時代の要請に応答する試みであると言えるだろう。

 本書の試みである「臨床の知」は、その基盤となる「経験」をいかに共有可能な知性として構築できるかどうかに、その成否がかかっている。だが、「臨床の知」はいまだその理論的・方法的基盤が十分に確立されたとは言い難い。
 本書においても、「経験の累積」によって形成されるという臨床の知の性質が繰り返し強調されているものの、その「経験」をどのようにして共有可能な知性として構築するかという問いに対して、明確な方策は提示されていない。結果として、議論は観念的なレベルにとどまり、臨床の知が現実の医療現場においてどのような知的実践を可能にするのかが、やや不透明なままに残されている。

 近代の知性が捉えきれなかった固有の「経験」を、近代的知性に対する反論としてあえて概念化しようとすること自体が、そもそも矛盾を孕んでいたのではないか。つまり、近代的知の枠組みに収まらない「経験の厚み」を強調するあまり、それをいかに新たな知として構造化するのかという課題が、むしろ回避されてしまっていたのではないか。結果として、批判の対象(近代科学)は明確でも、その代替として提示されるべき新しい知の枠組みは、あくまで対立項(antithesis)としての位置づけにとどまり、十分な概念化に至っていない。

 こうした傾向は、日本の思想的風土にしばしば見られる。すなわち、近代西洋知への反発として、「近代を乗り越える知」への志向が先行する一方で、その代替的な知をどう構築するかという理論的・実践的課題が、曖昧なまま放置されるという事態である。それは、近代批判という姿勢そのものが目的化し、構築的思考が後景に退いてしまう「思想的後退」を招きかねない。

 それでもなお、臨床の知が本来的に備えている可能性は否定されるべきではない。臨床の知は、本来、現代医療において置き去りにされがちな生命倫理の問題に、理論と実践の両面から切り込む可能性を有している。だからこそ今後求められるのは、「経験の知」をただ理念として語るのではなく、それをいかにして方法化・理論化し、共有可能な知として構築していくかという課題への本格的な取り組みである。

 本書の意義はまさに、そのような課題設定を正面から提示した点にある。臨床の知というコンセプトが、単なる対立項にとどまらず、現代に必要とされる「応答する知性」として実効性を持つためには、今後さらに方法的洗練と理論的深化が不可欠である。そうした展開に向けて、本書は重要な出発点を与えるものであったと言えるだろう。

中村雄二郎『臨床の知とは何か

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