ギターとハーモニカ

「ブルース」ではなく「ブルーズ」 – Bluesの魅力

ギターとハーモニカ

Bluesの魅力とは何か?

 Bluesは日本では、「ブルース」と発音されているが、正しい発音は /bluːz/ で、カタカナで書けば「ブルーズ」だ。そのままローマ字読みが定着してしまっているが、母音の後に続く「s」なので、発音は /z/ になる。

 まぁ通じればそれでいいのだろうが、なんか気になる。

 些細なことだが、こうした基本的なことがそのまま何十年とほっとかれていることからも窺えるように、日本ではbluesへの関心がめっっっちゃ低いということなのだろう。

 日本の有名な歌手(major label)でbluesを歌っている人をほとんど知らない。佐野元春、ソロの時の桑田佳祐、山崎まさよしくらいかな。

 自分は一時期、bluesばかり聞いてた時があったが、bluesの何がいいのかと聞かれると、確かに何がいいんだろう?と考えてしまう。

 今でも一番よく聞くgenreは、bluesに変わりない。よく、まーあ飽きずに聞いているもんだ。

 私は絶対鈍感の持ち主で、音楽理論や技術論的なことはまったく理解できない。なのでその点から言うことは、なーんにもないのだが、自分なりに考えてみた。

 一つ言えることは、bluesには「文学性」を感じるということだ。

 歌詞についてではない。Bluesの持つrhythm、tempo、melodyに文学的なものを感じるということだ。

 何を言っているんだ?と言われそうだが、とりあえず説明してみたい。

Bluesの文学性

 Bluesがアメリカの音楽史の中で革新的だったのは、それが西欧の音楽理論を完全に無視してできあがったという点にある。そもそも初期のblues singerたちには、「音楽理論」なんていう発想自体が無かっただろう。

 Bluesの源流は労働歌(work song)にあると言われている。もともとは多くの無名の人々が自然と口ずさんでいたものが発達していったものだ。

 当時の黒人たちの間では、言葉にrhythmとtempoを持たせ、韻を踏んで感情を吐き出す、という行為は、日常の生活の中でごく普通に行われていたものだった。特にお互いに言葉が通じない時などは、連帯感を示すために非常に重要な意味を持った。
 黒人文化の中にhollerというものがあるが、これは一人でいるときに即興的に個人の感情を歌にして歌う。だが、これを歌と呼ぶのは少し違うかもしれない。Hollerという言葉は「叫び」という意味で、その場の感情をそのまま叫んだら、自然とrhythmとtempoがついてきてしまうということなのだろう。

 個人の感情を自然と吐露したら、それがそのまま歌になってしまうというのだから、生まれながらにして音楽的才能に恵まれている人々なのだろう。

 このhollerに、guitarやharmonica(harp)の伴奏を付けたら、もうそれはbluesだ。

 Guitarやharmonicaは譜面に起こしても、演奏者の解釈によって表現が大きく変わってしまう。Pianoなどに比べると、個人の自由度が非常に高い楽器だったと言える。個人の感情を「音」として表現する際に、非常に効果的に機能した。特にslide guitarの果たした役割は大きかったと言われている。Slide guitarによって表現が可能になったビブラートは、個人の感情、特に悲しみを表すのに非常に適していた。

 こうしたguitarやharmonicaの自由な表現能力を最大限に生かして、思いのままを叫んだら、bluesができてしまった。。。Bluesの成立って実際こんな感じだったのだろう。

 要するに、bluesというのは、個人の感情そのままの表現なのだ。そこに理論も技術も関係なかった。個人の感情をただただ表現したかった、表へと吐き出したかったという思いがbluesを生んだのだろう。

 音楽はどんなものでも聴き手の感情に訴えかけてくるものだが、曲それ自体が感情表現そのものとしてあるということを強く感じる音楽はbluesなのではないかと思う。

 こうしたところに何か文学作品を読んでいる時と似たようなものを感じるのだ。

 文学というのはもちろん言葉の芸術だ。だが、言葉によって語りかけられているのと同じような感情表現をbluesの中には感じる。曲の方が個人の思いを「雄弁に語る」のだ。まるで曲自体が言葉を持って訴えかけているように。。。

 静かに一人で読書に耽っている時とbluesを聞いている時の精神状態というか、気持ちのありようって非常に似ているのだが、これって私だけだろうか?

Bluesの歌詞

 Bluesの中には、もちろん「歌詞」そのものが、文学性を持つ曲もたくさんある。

 特に最近のModern Bluesには、多くの技巧を用いた文学性の高いものも多い。
 だが、もともとbluesは、歌詞が単純なものだ。即興で歌われていたということも大きな理由だろう。三行詩が基本で、最初の二行は同じものを繰り返し、最後の一行が締め(punch line)になる。何度も使い古された「型」のような表現も多い。

 Folk songなどが極めて技巧的で詩的な表現が多いのに比べるとその差は歴然だ。Country songも歌詞は物語的で、長文詩のような形式が多い。
 だが、bluesのこのあまりに単純化された表現はかえって言葉一つひとつに象徴性を持たせているように思う。ちょうど日本の短歌や俳句が極限まで語数を絞って言葉一つひとつに象徴的な意味を持たせたように。

 言葉があまりにも少ないため、情景描写は聞き手の想像に任されている。そこに意味を求めようとしたら、少ない言葉数から、暗示や隠喩など象徴的な意味を読み取らなくてはならない。解釈は聞き手に大きく委ねられている。また古い曲は即興で作られたものも多く、意味の不明な表現も多々ある。それがまた聞き手に新たな解釈を誘うのだ。

 Bluesって、とても文学的ではないだろうか。

*****

 自分がbluesに最初にハマったきっかけはSonny LandrethのTrue Blueを聞いたことだった。 
 佐野元春からBob Dylanを知り、そこからMark Knopflerを聞いて、次にSonny Landrethを聞いた時に完全にknock outされてしまった。その後、Tony Furtadoの『Live Gypsy』やKelly Joe Phelpsの『Slingshot Professionals』などを聞いてからは完全にドツボだ。もう抜けられそうもない。。。

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