なぜ他ならぬ「私」なのか
みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第十五回です。
これまで私たちは、存在をめぐる問いについて考えてきました。
「ある」ということの驚異。そして、私が「今ここ」に存在しているという不可思議さ。
こうした事実への気づきこそが、哲学的な問いの出発点になります。
しかし、私たちは日常生活の中で、そのことを意識することはほとんどありません。
ところが、人生には、その事実を否応なく意識させられる瞬間があります。
「なぜ他の誰かではなく、この私なのか。」
「なぜ他のどこかではなく、今ここなのか。」
こうした問いが、突然、切実なものとして立ち現れることがあります。
それは、実存的な契機と呼ぶことのできる経験です。
今回は、「なぜ他ならぬ私なのか」というテーマを通して、この実存的な問いについて考えていきましょう。
原因は説明できても、「私」は説明できない
事故に遭ったとき、重い病気を宣告されたとき、大切な人を失ったとき。
多くの人は、一度はこう思うのではないでしょうか。
「なぜ、それが私だったのか。」
この問いは、単なる原因究明とは異なります。
私たちは何か不幸な出来事が起これば、その理由を考えます。しかし、どれほど詳しく理由を説明したとしても、「なぜ他ならぬ私だったのか」という問いには答えられません。
例えば、登山中に滑落事故に遭ったとします。
その原因はいくらでも考えることができます。
登山道の整備が十分ではなかったのかもしれません。
前日の大雨で足場が悪くなっていたのかもしれません。
あるいは、自分の不注意や疲労、体調不良が影響したのかもしれません。
こうした分析は決して無意味ではありません。
責任の所在を明らかにしたり、再発を防いだりするためには、原因を特定することは極めて重要です。
しかし、原因が明らかになったとしても、一つの問いだけは残ります。
「なぜ事故に遭ったのが、この私だったのか。」
原因は事故が起こった理由を説明します。
しかし、「なぜ他の誰でもなく私だったのか」ということまでは説明していません。
病気も同じです。
生活習慣が原因だったのかもしれません。
遺伝的要因があったのかもしれません。
あるいは、統計的に一定の割合で起こる病気だったのかもしれません。
しかし、それらは「病気が起こる理由」を説明しているだけで、「なぜその出来事が私に起こったのか」を説明しているわけではありません。
偶然が大きいほど、この問いは鮮明になる
このことは、人の努力ではどうにもならない出来事ほど、はっきり見えてきます。
例えば、二人の会社員が支店への出張を命じられたとします。
ところが直前になって、「一人だけ行けばよい」ということになりました。
どちらが行っても業務に支障はないため、二人はジャンケンで決めることにしました。勝った人が出張へ向かい、負けた人は本社に残ります。
しかし、不運にも、出張先で大きな地震が発生し、出張した方だけが大けがを負ってしまいました。
このとき、その怪我をした人物はこう考えるでしょう。
「なぜ、けがをしたのが私だったのか。」
もちろん、原因はいくらでも挙げられます。
ジャンケンで違う手を出していればよかったのかもしれません。
そもそも出張命令がなければ巻き込まれなかったかもしれません。
もっと言えば、この会社に入社していなければ、その場所にいることすらありませんでした。
さらにさかのぼれば、その会社を選んだ理由、その学校へ進学した理由、その土地で育った理由……と、因果関係はいくらでもたどることができます。
しかし、どこまでさかのぼれば、
「なぜ災害に巻き込まれたのが他ならぬ私だったのか」
という問いに答えられるのでしょうか。
おそらく、どこまで原因を積み重ねても、その問いには届きません。
因果関係は起きたことを説明する
ここで、一つ気づくことがあります。
因果関係による説明が明らかにするのは、起こった出来事を前提として、その出来事がどのような過程を経て生じたのかということです。
つまり、説明される出来事そのものは、すでに事実として与えられており、説明はその事実を一般的な因果関係の中に位置づけているにすぎません。
前回述べたように、歴史や科学も同じです。それらが説明するのは、「私」という実存そのものではなく、他の誰についても成り立つ一般的な因果関係としての「私」です。
今回の問題も同じ構造をしています。
事故や病気、災害について、因果関係は「なぜその出来事が起こったのか」を説明することはできます。しかし、「なぜその出来事を経験したのが他ならぬ私だったのか」という事実そのものを説明することはできません。
どれほど精密な説明であっても、それは「あの条件なら事故は起こる」「その条件なら病気は発症する」という一般的な因果関係を示しているにすぎません。
そこから、「なぜ他ならぬ私なのか」という問いへの答えが導かれることはないのです。
説明できないということ
このことは、不幸な出来事だけに当てはまる話ではありません。
本質的には、人生のあらゆる出来事について同じことが言えます。
人生を左右するような衝撃的な出来事や、偶然性の高い出来事ほど、この問いは強く意識されます。しかし、「なぜ他ならぬ私なのか」という問いは、そのような特別な場面に限られるものではありません。
日常のどんな些細な出来事であっても、その出来事を自分自身のこととして見つめるとき、この問いは静かに立ち現れます。
また、この問いは、自分が生まれながらに与えられたものについて考えるときにも現れます。
なぜ私は、この顔で生まれたのでしょうか。
なぜ、この体質だったのでしょうか。
なぜ、この家庭に生まれたのでしょうか。
なぜ、この時代だったのでしょうか。
なぜ、この国だったのでしょうか。
なぜ、この才能を持ち、あの才能を持たなかったのでしょうか。
生物学や遺伝学、社会学、歴史学は、こうした事柄がどのような過程を経て現在の姿になったのかを説明してくれます。
しかし、それらの説明は、「すでに存在していること」「すでに起こったこと」を前提として、その成立の過程を明らかにしているにすぎません。
「なぜそれが他ならぬ私だったのか。」
この問いそのものには、答えていないのです。
実存とは、「事実としてある」ということ
今まで何度も見てきたように、ここでも問われているのは「実存」という問題です。
「なぜ他ならぬ私なのか」という問いは、原因や法則を探す問いではありません。
それは、「この私が今ここに存在している」という事実そのものを問う問いです。
しかし、その事実は、因果関係によって説明される以前のものです。
どれほど原因を積み重ねても、最後に残るのは、
「私は、この私として、今ここに存在している。」
という事実です。
それは証明できるものでも、他の事実へ還元できるものでもありません。
ただ、そのようにあるというほかない事実です。
私たちは普段、そのことを意識することはありません。
しかし、ある時何かのきっかけで、「なぜ他ならぬ私なのか」という問いが立ち現れる時があります。
その問いには、答えがないのではありません。
そもそも、因果関係によって答えられる種類の問いではないのです。
だからこそ、「なぜ他ならぬ私なのか」という問いは、人間が自らの存在に向き合うとき、最後まで残り続ける実存的な問いなのです。
それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。




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