実存としての「私」
みなさん、こんにちは。
「自分の頭で考える哲学」第十四回です。
前回は、「ある」とは何かについて考えました。
そこで見えてきたのは、「ある」ということそのものが、私たちにとって最も驚異的な事実だということです。
「世界がどのように生じ、今のように存在するようになったのか」は説明できても、「なぜ存在そのものがあるのか」という問いには答えられません。
存在そのものが、驚異なのです。
そして、その「ある」という事実を最も鮮明に示しているものがあります。
それが、私自身の存在です。
以前の回でも述べたように、「私」という存在は、言葉や概念によって捉え尽くすことはできません。なぜなら、「私」は一般的な概念ではなく、交換不可能な固有の存在だからです。
ここでいう「固有」とは、単に他人とは違う特徴をもっているという意味ではありません。
私が「今ここ」に存在しているという、実存的な事実そのものを指しています。
私という存在が、今ここにある。
この事実こそ、「ある」ということの不可思議さを最も直接的に示しています。
では、「私が今ここに存在している」という事実は、どのような意味をもっているのでしょうか。
今回は、この問いから実存について考えていきましょう。
「今ここ」に存在する理由
まず、一つの問いを投げかけてみましょう。
「あなたが今ここに存在する理由を説明できますか。」
できるだけ論理的に詳しく説明してみてください。
多くの人は、自分の生い立ちから語り始めるでしょう。
「両親が出会い、結婚し、その後に私が生まれた。」
生物学的には、次のようにも説明できます。
「両親から受け継いだ遺伝子をもつ受精卵が細胞分裂を繰り返し、この身体が形成された。」
さらに宇宙の歴史までさかのぼれば、こう語ることもできます。
「ビッグバンによって宇宙が始まり、恒星の内部で炭素や酸素などの元素が生まれた。それらが地球に集まり、水と炭素を中心とする生命が誕生し、長い進化の過程を経て人類が現れ、その一人が私である。」
どれも誤った説明ではありません。
しかし、ここで改めて考えてみてください。
これらの説明は、本当に「あなた自身」が「今ここ」に存在していることを説明しているのでしょうか。
家族の歴史も、生物学も、進化論も、宇宙論も、いずれも重要な事実です。
しかし、それらが説明しているのは、「あなたがどのような原因によって現在に至ったのか」という成立の過程です。
それは、存在している自分がなぜ「この私」であり、そして「今ここ」であったのか、という問いとは、別の問いなのです。
歴史は誰にでも語れる
この違いは、視点を変えるとさらに明確になります。
家族の歴史、生物学、進化論、宇宙論、あるいは神話や宗教的な物語でも構いません。それらは、私がここに至るまでの経緯を、一つの説明や物語として語ることができます。
しかし、それらは私だけについて語るものではありません。
あなたにも、生まれるまでの歴史があります。隣人にもあります。猫にも、木にも、石にもあります。さらには、地球や銀河にも、それぞれ成立の歴史があります。
あらゆる存在には、その存在に至るまでの過程を語ることができます。
つまり、「成立の歴史を説明する」という方法は、あらゆる存在に共通して適用できる一般的な説明方法なのです。
そこで用いられる法則が、科学的であっても、宗教的であっても、あるいは日常的な常識であっても、本質は変わりません。
説明とは、個別の存在を一般的な法則や因果関係の中に位置づける営みだからです。
ここに、説明というものの本質的な限界があります。
私たちは「この私」が存在する理由を説明しているつもりでも、実際に説明しているのは、一般的な存在としての「私」にすぎないのです。
では、なぜそのようなことが起こるのでしょうか。
説明できることと、説明の前提になっていること
私たちは何かを説明するとき、必ず説明の前提となる事実を置いています。
数学では、公理を前提として議論を進めます。
科学では、観測された事実を前提として理論を構築します。
歴史では、起こった出来事を前提として因果関係を説明します。
「私とは何か」を説明しようとするときも同じです。
そこではすでに、「私が今ここに存在している」という事実が前提になっています。
歴史的・科学的な説明は、その前提の上で、「私」が現在に至るまでの成立過程を語ります。
「私は両親から生まれた」
「私はDNAを受け継いだ」
「私は進化の結果としてここにいる」
これらはすべて、「私が存在している」という事実を前提として初めて成り立つ説明です。
しかし、本来説明しようとしていたのは、「私」という固有の存在そのものです。
ところが、実際に説明されるのは、「今ここ」に存在するこの私ではなく、一般的な法則によって説明可能な「一つの事例としての私」です。
どのような説明であっても、それは「なぜこの私が、今ここに存在しているのか」という問いには答えられません。
その説明は、「この私」ではなく、他の誰であっても、「今ここ」ではなく他の何処か別の時間であったとしても当てはまるからです。
つまり、「この私」が「今ここ」であったことの必然性を説明するものではありません。私の実存性そのものは、説明の中から抜け落ちています。
だからこそ、どれほど因果関係を精密に積み重ねても、「私が存在している」という事実そのものには届きません。
説明とは、前提の上に築かれるものです。
それゆえ、説明の前提となっている事実そのものを、説明によって明らかにすることはできないのです。
「私」は概念ではなく、実存である
ここから見えてくるのが、「私」という存在の実存的なあり方です。
歴史的・科学的説明は、私がどのように成立したかを明らかにできます。
しかし、なぜ他の誰かではなく、「この私」なのか、なぜ「今ここ」であり、「他」ではなかったのかという問いには答えません。
私は、今ではなく、江戸時代に生まれていてもおかしくなかったはずです。日本ではなく別の国──たとえば、インド──で、別の親のもとに生まれていたかもしれません。あるいは、人間ではなく別の生物として存在していたとしても不思議ではなかったはずです。
それでも現実には、「今ここ」にいるのは「この私」です。この事実は、「どのように存在するようになったか」という因果の問題ではなく、存在しているという事実そのものを問う問題として現れます。
だからこそ、「私」の存在は言葉で説明されるものではありません。私は、説明される対象である以前に、あらゆる説明の出発点でもあるのです。
歴史や科学は、「私が存在している」という事実を前提として、その来歴を語ることはできます。しかし、なぜ他のあり方ではなく、今このような形で存在しているのかという、存在の偶然性・特殊性・必然性そのものまでは説明できません。
そしてこの問いをさらに突き詰めると、最終的には「なぜ世界は、今このようなものとして存在しているのか」という、存在全てに関わるより根本的な問いへとつながっていくのです。
「私とは何か」という問いは消えない
科学は、「私」がどのように生まれたのかを詳しく説明してくれます。
歴史は、「私」が現在に至るまでの歩みを語ってくれます。
生物学は、「私」の身体がどのような仕組みで成り立っているのかを明らかにしてくれます。
これらはいずれも重要な知識です。
しかし、それらをすべて知ったとしても、「なぜこの私が今ここで世界を経験しているのか」という問いはなお残ります。
そして、この問いは、科学が間違っているから残るのではありません。
科学や歴史が扱う「説明」と、「私」という実存的な事実は、そもそも異なる次元の問題だからです。
「私とは何か」という問いは、知識が不足しているから生まれる問いではありません。
むしろ、どれだけ知識が増えてもなお残り続ける、人間が自らの存在に向き合うとき、避けることのできない根本的な問いなのです。
それでは今回はここまでにしましょう。
また次回、お会いしましょう。




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