読書亡羊(どくしょぼうよう)
『荘子』外篇の駢拇に記された故事より。
「書を読みて羊を亡う」と読む。
他のことに気を取られて、大事なことを疎かにしてしまうことの例え。
出典『荘子』
臧と穀との二人、相い与(とも)に羊を牧(やしない)いて、倶(とも)に其の羊を亡(うしな)えり。臧になにをか事とせしと問えば、則ち筴を挟みて書を読めるなり。穀になにをか事とせしと問えば、則ち博塞して以て遊べるなり。二人は、事業同じからざるも、其の羊を亡うに於いては、均しきなり。
『荘子』(外篇駢拇第八)講談社学術文庫より
臧(ぞう)と穀(かく)の二人の下男が羊の番をしている途中、羊を逃がしてしまった。 臧に何をしていたのか問いただしたところ読書に耽っていたという。一方、 穀(かく) の方は、賭博に興じていたという。二人のやっていたことは全く違うが、羊を逃したという点では同じである―――
本ばかり読んでいると。。。
出典となった『荘子』には二人の下男が登場しているが、慣用句として取り上げられているのは、書を読んでいた方だけである。だが、読書をしていた一人だけを取り上げたことで、荘子本来の意味から外れて、非常に寓話的な表現に変わっている。
この成句は、今では一般的に、 「他のことに気を取られて、大事なことを疎かにしてしまう例え」として用いられている。
読書という本人にとって価値のあること、意義のあることをやっているつもりが、なんの成果も生み出していないし、それどころか、本来なすべきことを忘れている。結果の伴わない努力や労力を揶揄する話になっている。
まるでイソップ物語に出てきそうな話だ。皮肉、嘲笑、あるいは自嘲としての意味も込められているだろう。
だが、この出典の本来の意味合いは少し違う。
出典の『荘子』を実際見てみると、羊を失ったということ自体には、大した重きは置かれていない。「結果」にではなく二人の人物の「対比」にこそ意味がある。書物を読んでいようと賭博に興じていようと、その「結果」に違いはない。したがって、「読書」という行為が「結果」の免罪符になるわけではない。また、同じように「賭博」という行為によって、より罪(責任)が重くなるわけでもない。
つまり、二人の人間としての価値なんてほとんど変わらない、ということを伝えようとしているのがこの説話の示すところだ。
社会の序列を重んじた儒家に対し、万物斉同を唱えた荘子らしい話だろう。
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