【概略】進化論の進化史(全3回)第3回
自然選択の再定義:個体から遺伝子へ
W.D. ハミルトン:血縁選択説と包括適応度の概念(1964)
W.D. ハミルトンは、ダーウィン的な自然選択を再構築し、淘汰の単位を「遺伝子」に置き換える理論的転換を果たした。その中心となるのが、1964年に提唱された血縁選択説(kin selection theory)である。
- ハミルトンは、進化の単位を個体ではなく、遺伝子の繁殖成功ととらえた。
- 生物個体は、自身の生殖によって直接的に遺伝子を次世代に伝える(直接適応度)だけでなく、遺伝子を共有する血縁個体の生殖を助けることで、間接的に遺伝子を残すこともできる(間接適応度)。
- ハミルトンは、これらを合わせた包括適応度(inclusive fitness)という概念を導入し、生物の行動をこの観点から説明した。
- 例えば、利他的に見える行動(自らの犠牲によって血縁個体を助ける行動)は、実は自分の遺伝子の拡散に貢献する戦略であると解釈される。
血縁係数(r)とハミルトンの法則:
ハミルトンは、利他的行動が進化する条件として、以下の不等式を提唱した:
rb > c
(r:血縁係数、b:利他行動による受益者の利益、c:行為者のコスト)
この関係が成り立つとき、利他的行動は自然選択によって進化しうる。
有性生殖と遺伝的多様性:寄生者への対抗戦略としての進化
寄生者仮説(Parasite Hypothesis)
有性生殖の進化的意義を説明する理論の一つが、ハミルトンや他の研究者によって提唱された寄生者仮説(Red Queen dynamics / parasite-host coevolution)である。
- 有性生殖は、配偶相手を探す労力やコスト、遺伝子の半分しか子に伝えられないといった点で、単性生殖に比べて効率が悪い。
- にもかかわらず、多くの高等生物が有性生殖を行っている理由として、「有性生殖によって得られる遺伝的多様性が、寄生者に対抗するうえで有利だった」という仮説がある。
- ウイルス・細菌・寄生虫などの寄生者は、世代交代が速く、宿主に比べて進化スピードが速い。そのため、宿主も常に遺伝的変化を続けなければ、寄生者の攻撃に対応できなくなる。
- 有性生殖は、遺伝子の組み替えによって常に新しい遺伝的組成を生み出すため、この「進化的軍拡競争」において有利に働く。
有性生殖は「遺伝子のシャッフル装置」であり、短期的コストを払ってでも長期的に生存確率を高める戦略であると考えられている。
進化的軍拡競争:赤の女王仮説
ヴァン・ヴァーレンと赤の女王仮説(1973)
進化生物学者リー・ヴァン・ヴァーレン(Leigh Van Valen)は、捕食者と被捕食者、宿主と寄生者といった関係において、常に続く進化的競争があることを強調し、赤の女王仮説(Red Queen Hypothesis)を提唱した。
- 名称の由来は、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王のセリフ:
「同じ場所にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」。 - この比喩を用いてヴァン・ヴァーレンは、生物は環境中の他の生物(特に敵対関係にある生物)に対抗して常に進化し続けなければならないと主張した。
- 進化とは「進歩」ではなく、相対的な適応状態の維持のための動的な過程であり、種は「変わり続けなければ絶滅する」。
赤の女王仮説の含意
- 生物種が進化しても、それによって生存の絶対的な安全が保証されるわけではない。むしろ、他の種も進化するため、生存競争の相対的位置は維持される。
- ヴァン・ヴァーレンはまた、科(ファミリー)レベルで見た種の絶滅確率は進化の有無にかかわらず一定(=ランダム)であるとする統計的分析を提示した。
- この仮説は、進化における「継続的な変化の必然性」という視点を与え、生物間相互作用のダイナミズムを強調する理論的枠組みとして、進化生態学や分子進化学に影響を与えた。
総括:淘汰圧の進化と適応の動態的過程
W.D. ハミルトンの血縁選択説は、自然選択の対象を個体から遺伝子レベルへと再定義し、「利他的行動」の進化を理論的に説明可能にした。一方、寄生者仮説と赤の女王仮説は、生物の適応が他の生物との終わりなき競争によって駆動されることを明らかにした。
これらの理論は、進化を「静的な最適化」ではなく、他者との関係のなかで絶えず変化を強いられる動態的過程として捉え直すものである。すなわち、自然選択は固定的な「完成形」を目指すものではなく、不断の更新と競争の中で常に選択圧が再構成される運動体であることが、進化論の新たな地平として示された。
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