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「友愛(フィリア philia)」:人と人との間を結びつける紐帯の概念 – プラトン『リュシス』を読む

哲学談戯

プラトン『リュシス』(390 BC?)

紐帯の原理としての友愛(philia)

 副題は、「友愛について」。
 ここで扱われる「友愛(philia)」は、現代でいう「友情(friendship)」よりもはるかに広い意味をもつ。
 古代ギリシアにおける「友愛」は、感情的な結びつきを表すものではなく、人と人との間を結びつける紐帯となる概念で、関係性を作り上げる原理として考えられている。さらに、そこから類推的発展をして、物質同士の結びつきの要因ともされる。

 たとえば、エンペドクレスによれば、世界は火、水、土、空気の四元素から成り立っていて、それらは友愛(philia)によって結びつき、憎しみ(neikos ネイコス)によって分離することで、自然界の変化が説明できるとした。

 ここでのソクラテスの対話は、友情という感情的な結びつきだけに収まるものではなく、人はなぜ集団を形成し、社会の中で生きているのか、という広い射程を持った議論だということを念頭に置いて読む必要がある。

友愛の成立する条件とは?

 『リュシス』は、プラトンの初期対話篇の一つとされ、他の初期作品と同様に、明確な結論に至らずアポリア(解決不能な問い)の形で終わる構成をとっている。

 物語は、青年リュシスに恋をしているヒッポタレスが、ソクラテスに助言を求めたことをきっかけに展開される。舞台はアテナイの体育場(palaestra パイラストラ)。ソクラテスはそこでリュシスと対話を交わすことになり、その中で「友愛(philia)」とは何か、どのような条件のもとで成立するのかを探求していく。

 この対話において重要なのは、philiaが単なる感情的な友情ではなく、人と人とを結びつける根本的な紐帯として捉えられているという点である。ソクラテスは、まず前提として「愛する側(主体)」と「愛される側(客体)」を区別しながら、philiaが成立するためには一方的でない相互的な関係が必要であると考察を進めていく。

 しかし、ソクラテスは次第に、どのような関係であっても完全に「友愛」と呼べるものに当てはまらないことを明らかにしていく。愛する側のみ、あるいは愛される側のみの一方通行な関係ではphiliaは成立しない。なぜなら、philiaとは本質的に相互性と善を伴うものであり、片方のみに偏った関係ではその「結びつきとしての機能」が損なわれるからである。

 では、互いが愛し合っている関係性はどうか? これについてもソクラテスは否定的である。なぜなら、philiaは感情的な親密さにとどまるものではなく、自然界における結合の原理と同様に、より普遍的で倫理的な意味をもつからだ。友愛は、あらゆる関係性の根底にある原理であり、したがってそれは「善なる関係」であることを本質とする。どれほど強く互いを求め合っていたとしても、その関係が「善」でない限り、それは真のphiliaとは呼べない。

 ここでソクラテスは、「人が友を求めるのは、そこに善を希求するからである」と述べる。だがこの点から、逆説的な問いが生じる。──もし善なる人が、すでに善を完全に備え、自足しているのであれば、その人には何も欠けたものがなく、友愛を必要としないのではないか?

 この考えをさらに進めると、「似た者同士」あるいは「反対の性質をもつ者同士」が互いを求め合うという説も、philiaが善を希求するものであるという前提に照らせば否定されることになる。善を伴わない関係性には、真の友愛は成立しないのだ。

 議論が行き詰まるように見えるこの段階で、ソクラテスはphiliaを哲学(philosophia)、つまり「知を愛する」ことに例える。

「私たちは、すでに知のある者たちが──人間たちであれ神々であれ──、知を愛し求める「哲学する」ことはもはやなく、そして無知であるために悪くなってしまった人たちもまた知を愛し求めることはない、というもの悪くて無教養な人は誰も知を愛し求めることはしないから、と主張できるのだ。したがって、残るのは、無知というこの悪をもってはいるが、まだその悪によって無知で無教養にはなりきっておらず、自分たちの知らないことは知らないとまだ考えている人たちである。」

 この考察からソクラテスは、次のような結論を導く。

「リュシスとメネクセノスよ、私たちは何にもまして、友とは何であり、何でないかを見つけたのだ。すなわち、私たちはそれを次のように主張する。魂についてであれ、身体についてであれ、あらゆることについて、悪くも善くもないものが、悪がそなわるがゆえに善の友である、と」

 つまり、philiaとは、自らの不完全性や欠如を自覚する存在が、それゆえに善を求める志向性にほかならない。ソクラテスにとって友愛とは、哲学と同じく、自らが無知であるがゆえに知を求めるように、自らに悪が備わっているからこそ、友(philos)を求めるものだということになる。

第一の根源的な存在としての友 – プラトン的イデア論

 ここで一応の議論の終結を迎えたかに見えた対話は、しかしながら、ソクラテスの突然の問題提起によって新たな局面に入る。彼はこれまでの結論が誤っていた可能性に気づき、議論の前提そのものを覆すような問いを提示するのである。

 その問いとは、「すべてのものの第一の友(protos philos)」──他に遡ることのできない、すべての関係の根源にあるような「真の友」が存在するのではないか、というものである。そして、これまで「友」と呼ばれてきたものは、実はその第一の友の模倣された姿にすぎず、私たちを惑わせる虚像ではなかったかと問いかける。

 ここからの議論は急に性質の異なるものになる。
 友は、何かのために友であるのではなく、友であるがゆえに友である──そう、ソクラテスは説く。
 この一見すると同語反復(トートロジー)的な表現は、実際には後のイデア論に通じる重要な発想を含んでいる。すなわち、philia(友愛)を、それ自体で完結し、他の目的によらずに存在する「本質的なもの」として捉えようとする思考である。

 だが、第一の根源的な真の友が存在し、それ以外は偽りのものとすると、友をめぐるさまざまな関係性についての今までの議論は、偽りの問題を解いていたことになる。ただ人は、第一の根源的な友さえ求めればよいのだから。ここで問題は関係性から本質へと転回している。

 この転回の結果、関係性としての友愛は欲望の一形態として捉えられ、「欲すること=友愛である」という混同に陥る。そして、ソクラテスの議論は、友愛が欲望そのものであるという結論へと収束していく。こうして議論は、明確な定義や基準に到達できないまま、アポリア(解決不能な問い)へと行き着いてしまった。

 ソクラテスは、このような偽りの幻影にすぎない友に騙されるべきではない、と若者たちに忠告してこの対話は終わりを迎える。

 この最後の唐突なソクラテスの議論は非常に奇異の感を与える。実際、前半のソクラテスが人間関係や社会的紐帯としてのphiliaを考察していたのに対して、終盤では形而上学的な「イデアとしての友」へと急旋回している。この連続性のなさは、単なる議論の深化というより、思想的次元の異同を示唆している。

 ここに見られるのは、おそらくソクラテス本来の思想と、プラトン自身のイデア論的発想の混在である。つまり、『リュシス』という作品には、プラトンが自身の哲学をソクラテスの口を借りて語り始めた痕跡が現れていると考えられる。

 本書の議論が読みにくく感じられるのは、この点に原因がある。すなわち、ここで示されるのはphiliaに関する議論が持つ本質的なアポリアではなく、異なる次元の議論が混在することによって生じた構造的な混乱なのである。

 このように本対話篇を読む際には、ソクラテス的議論とプラトン的構想の交錯に注意を払わねばならない。その区別を見失うと、議論全体が断片的に見え、内容が混乱して映る恐れがある。

 以上を踏まえると、本作品における「友愛」論の核心は、むしろ前半から中盤にかけての議論にあるといえる。そこでは、「人を愛する」という行為が本質的に自己の欠如や欲望から出発するものでありながら、それがいかにして「善なる関係」すなわちphiliaたりうるのかという、深い倫理的・哲学的問いが追求されていた。

 この問いは、現代においてもなお重要な意味をもつ。人を求めることが本質的に自己本位であるとするならば、その関係が「善」として成り立つためには、何が必要なのか。philiaとは何かという探究は、今も私たちの人間関係や社会のあり方を根本から問い直す契機となりうる、普遍的な問題である。

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