PR|記事内に広告が含まれています。

「考える葦」としての人間──パスカル『パンセ』の人間観を読み解く

哲学談戯

パスカル『パンセ』(1670)

パスカルが生きた時代と『パンセ』の背景

 ブレーズ・パスカルが生きた17世紀のフランスは、長く続いた宗教戦争の混乱を脱し、絶対王制の確立へと向かう安定期に入っていた。「フロンドの乱(1648-1653)」によって一時的に社会は揺らいだものの、全体としては政治的秩序が回復し、安定が保たれつつあった。

 農業技術の向上や近代科学の発展によって飢えは克服され、民衆は生活の余裕を得るようになった。その結果、人々は宗教を以前ほど切実に必要とせず、無関心な者や無神論者が増加していった。社会の安定に伴い宗教の役割が相対的に弱まるのは、ある意味で自然な流れだったといえる。

 しかし、パスカルはこの変化を肯定しなかった。彼には、人間が宗教を必要としないまま生きる時代は、誤った方向に進んでいると映った。宗教に無関心な人々に対して、いかにして神の存在と必要性を説くか──それが、理性と科学の幕開けの時代に彼が取り組んだ課題だった。こうして生まれたのが、彼の主著『パンセ』だった。

『パンセ』本来の構想

 現在流通している『パンセ』の翻訳の多くは19世紀末の「ブランシュヴィック版」に基づいている。この版は、パリ大学文学部教授ブランシュヴィックが国立図書館に保管されていたパスカルの自筆原稿を直接調査・編纂したものである。この版によって、1670年刊行の初版(ポール・ロワイヤル版)が、遺族や編者による補筆を含むことが明らかになった。

 ブランシュヴィック版は、パスカルの自筆の遺稿を主題ごとに分類し、編纂している。この版は、長らくフランスはもちろん日本でも定番とされてきた。
 しかし、第二次対戦後、原典批判の研究が進展したことに伴って、この編集方針が恣意的ではないかという批判が高まっていった。背景には、姉ジルベルト・ペリエの伝記『パスカル氏の生涯』(1684年刊)や、甥エティエンヌ・ペリエがポール・ロワイヤル版に付した序文の再検証がある。これらの文献の研究を契機として、従来見過ごされていた事実が浮かび上がった。

 その新事実とは、『パンセ』着手の動機だ。ジルベルトによれば、パスカルは、姪マルグリット(ジルベルトの娘)の眼病が「キリストの荊冠の破片」を患部に当てたことで奇跡的に治癒したという出来事に衝撃を受け、それを契機に神への思索を深めたという。そして、無神論者や自由思想家を論破する決定的な方法を思いつき、ある著作に没頭するようになったと記している。この著作は未完のまま終わり、「キリスト教護教論」に関する数多くの断片が残された。それら原稿は、死後刊行される遺稿集『パンセ』の一部として編纂された。

 問題は、『パンセ』におけるその「キリスト教護教論」の位置付けである。ブランシュヴィック版は「その関係は不明」という前提で編纂されたが、その後の研究により、ある程度は構想が判明するようになった。手掛かりは、エティエンヌ・ペリエの序文にあった。彼はパスカルの原稿が「いくつかの束に結わえられていた」が、順序も一貫性もなかったため、そのまま写本を作成したと記している。こうして、最初のポール・ロワイヤル版が出版される。

 現在の原典研究の結果、パスカルは自ら原稿を切り貼りして整理し、束ねたユニットを作っていたことが判明している。これらのユニットは61または62あり、それぞれにパスカル自身が付したとみられる表題と目次があった。ポール・ロワイヤル版の編者はこの構成を尊重して写本を作成した。
 しかし、後に原稿から表題と目次は失われ、束も解かれてバラバラになった。このため、ポール・ロワイヤル版は、その後の歴史で軽視されていくことになる。だが、現在、この写本の価値が再評価され、パスカルが構想した「キリスト教護教論」の構造を高精度で再現している可能性が注目されるようになった。

 現在では、ポール・ロワイヤル版の写本をもとに組み立て直した『パンセ』が出版されている(ラフューマ版、ル・ゲルン版、セリエ版、岩波文庫版)。

『パンセ』が目指したもの

 パスカルにとって、人間の本質は「悲惨さ」にあった。人間は、原罪を背負った存在である。その証しに、人は「死」という災厄から決して逃れることができない。ゆえに、人間は本質的に神を必要とする。

 しかし、多くの人々はこの事実に気づかず、神と向き合おうとしない。そのため、日常をさまざまな娯楽や「気晴らし」で埋め、無為に過ごしてしまう。パスカルは、こうした姿を「神なき人間」として批判した。

 彼の主張は、人間は自らの悲惨さを直視し、神に救いを求めなければならないというものである。そして、己の惨めさを理解できることこそ、人間だけが持つ偉大さの証しであると考えた。この思想こそが、『パンセ』の根底に流れる本来の意図だったのである。

「考える葦」の真意

三四七

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

パスカル『パンセ』中公文庫 pp.250-251

 パスカルは、人間の存在を根本的に「悲惨」として捉えている。人は、原罪を背負い、罪を犯す存在だ。それゆえ、神から永遠の命を与えられてはいない。そして、力や能力においてさえ、自然界の多くの存在に劣っている。
 しかし、同時に、人間はその悲惨さを自覚できる存在でもある。この自己を認識できる力こそが、人間の「偉大さ」の証しである──彼は、そう考えた。

 パスカルの有名な言葉「人間は考える葦である」の真意は、この「悲惨さと偉大さの共存」という人間理解によってこそ読み解けるだろう。
 それは、17世紀の思想的課題である理性と信仰の対立に、パスカルの与えた一つの回答だとも言える。人間は無力で、自らの力では決して救われない、神の助けを必要とする存在だ。だが、無力であることを自ら気がつくことはできる──。

 自然界のいかなる存在も、自らの境遇や死の運命を省みることはない。しかし、人間だけは、自分が有限で惨めな存在であることを理解し、それを超えようと神を求めることができる。
 葦は自然界でもっとも弱い存在の一つだが、水辺に深く根を張り、水の流れに押し流されることはない。人間もまた、その葦のように脆弱だ。しかし、葦が大地に根を張るように、人間は理性によって、不条理な現実に流されることなく、世界の全体をも理解しようとする思考力を持つ。
 この考える力こそが、神から与えられた人間の特権であり、道徳の唯一の源泉なのだ。

 人間の存在の儚さ、脆さ──
 そして、神の救い──
 その恩寵として与えられている「考える力」──

 パスカルにとって、この特異な在り方こそが人間存在の核心であり、『パンセ』全体を貫く思想であった。

引用
パスカル『パンセ』中公文庫
参考
鹿島茂『NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセ』(2013)
パスカル『パンセ(全3巻)』岩波文庫

コメント

タイトルとURLをコピーしました