パスカル『パンセ』(1670)
パスカルが生きた時代と『パンセ』の背景
ブレーズ・パスカルが生きた17世紀のフランスは、長く続いた宗教戦争の混乱を脱し、絶対王制の確立へと向かう安定期に入っていた。「フロンドの乱」によって一時的に社会は揺らいだものの、全体としては政治的秩序が回復し、安定が保たれつつあった。
農業技術の向上や近代科学の発展によって飢えは克服され、民衆は生活の余裕を得るようになった。その結果、人々は宗教を以前ほど切実に必要とせず、無関心な者や無神論者が増加していった。社会の安定に伴い宗教の役割が相対的に弱まるのは、ある意味で自然な流れだったといえる。
しかし、パスカルはこの変化を肯定しなかった。彼にとって、人間が宗教を必要としないまま生きる時代は、誤った方向に進んでいると映ったのである。そこで彼は、宗教に無関心な人々に対して、いかにして神の存在と必要性を説くかという課題に取り組んだ。こうして生まれたのが、彼の主著『パンセ』である。
『パンセ』本来の構想
現在流通している『パンセ』の翻訳の多くは19世紀末の「ブランシュヴィック版」に基づいている。この版は、パリ大学文学部教授ブランシュヴィックが国立図書館に保管されていたパスカルの自筆原稿を直接調査・編纂したものである。この版によって、1670年刊行の初版(ポール・ロワイヤル版)が、遺族や編者による補筆を含むことが明らかになった。
ブランシュヴィック版は主題分類が優れており、長らくフランスはもちろん日本でも定番とされてきた。しかし戦後の研究の進展に伴い、この編集方針が恣意的ではないかという批判が高まった。背景には、姉ジルベルト・ペリエの伝記『パスカル氏の生涯』(1684年刊)や、甥エティエンヌ・ペリエがポール・ロワイヤル版に付した序文の再検討があった。これらの文献によって従来見過ごされていた事実が浮かび上がったのである。
その新事実とは、『パンセ』着手の動機である。ジルベルトによれば、パスカルは、姪マルグリット(ジルベルトの娘)の眼病が「キリストの荊冠の破片」を患部に当てたことで奇跡的に治癒した出来事を契機に思索を深め、無神論者や自由思想家を論破する決定的な方法を思いつき、ある著作に没頭するようになったという。この著作が『パンセ』を構成する「キリスト教護教論」である。
問題は、『パンセ』と「キリスト教護教論」の関係である。ブランシュヴィック版は「その関係は不明」という前提で編纂されたが、その後の研究により、ある程度は構想が判明するようになった。手掛かりは、エティエンヌ・ペリエの序文にあった。彼はパスカルの原稿が「いくつかの束に結わえられていた」が、順序も一貫性もなかったため、そのまま写本を作成したと記している。
研究の結果、パスカルは自ら原稿を切り貼りして整理し、束ねたユニットを作っていたことが判明した。これらのユニットは61または62あり、それぞれにパスカル自身が付したとみられる表題と目次があった。ポール・ロワイヤル版の編者はこの構成を尊重して写本を作成した。しかし後に原稿から表題と目次は失われ、束も解かれてバラバラになった。このため、ポール・ロワイヤル版は、その後の歴史で軽視されていくことになる。だが、現在、この写本の価値が再評価され、パスカルが構想した「キリスト教護教論」の構造を高精度で再現している可能性が注目されるようになった。
現在では、ポール・ロワイヤル版の写本をもとに組み立て直した『パンセ』が出版されている(ラフューマ版、ル・ゲルン版、セリエ版)。
『パンセ』が目指したもの
パスカルにとって、人間の本質は「悲惨さ」にあった。人間は死から逃れることができず、何よりも原罪を背負った存在である。ゆえに、人間は本質的に神を必要とする。
しかし、多くの人々はこの事実に気づかず、神と向き合おうとしない。そのため、日常をさまざまな娯楽や気晴らしで埋め、無為に過ごしてしまう。パスカルは、こうした姿を「神なき人間」として批判した。
彼の主張は、人間は自らの悲惨さを直視し、神に救いを求めなければならないというものである。そして、己の惨めさを理解できることこそ、人間だけが持つ偉大さの証であると考えた。この思想こそが、『パンセ』の根底に流れる本来の意図だったのである。
「考える葦」の真意
三四七
人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
pp.250-251
パスカルは、人間の存在を根本的に「悲惨」であると捉えた。人は死を免れず、原罪を背負い、力や寿命において自然界の多くの存在に劣る。しかし同時に、人間はその悲惨さを自覚できる存在でもある。この自己認識こそが、人間の「偉大さ」の証であると彼は考えた。
パスカルの有名な言葉「人間は考える葦である」の真意は、この「悲惨さと偉大さの共存」という人間理解によってこそ読み解けるだろう。
自然界のいかなる存在も、自らの境遇や死の運命を省みることはない。しかし人間だけは、自分が有限で惨めな存在であることを理解し、それを超えようと神を求めることができる。葦は自然界で最も弱い存在の一つだが、人間はその葦のように脆弱でありながら、宇宙をも包み込む思考力を持つ。この考える力こそが、神から与えられた人間の特権であり、道徳の唯一の源泉である。
人間の存在の儚さ、脆さ──
そして、神の救い──その恩寵として与えられている「考える力」──
パスカルにとって、この特異な在り方こそが人間存在の核心であり、『パンセ』全体を貫く思想であった。
引用
パスカル『パンセ』中公文庫
参考
鹿島茂『NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセ』(2013)
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