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沈黙の中の実存——ウィトゲンシュタインと独我論の地平 – 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』

哲学談戯

永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(1995)

哲学することの意味

 優れた哲学者とは、「これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、それにこだわり続けた人」のこと———

 哲学の本質は、既知の問題に対して新しい解答を与えることではない。むしろ、それまで問題とされてこなかった場所に問題を見出し、それに固執し続ける営みにこそある。仮にその問題を「解決した」「乗り越えた」と感じたとしたら、その時点で、もはやその人は問題を共有していないことになる。つまり、「問題を共有し続けること」——それこそが、哲学をするということの意味なのだ。

 著者はこのように、哲学の意義を端的に述べている。

 本書は、ウィトゲンシュタインの思索の中から独我論についての問題を発見し、彼とともに、その問題にこだわり続けた著者の思索をまとめたもの。ウィトゲンシュタインの思索に仮託する形で、著者自身の哲学が、かなり色濃く表れているように感じる。
 「他でもない自分という存在」に気付いたときの驚き。それがウィトゲンシュタインの中に著者が発見した問題であり、この問題をめぐって著者の思索が進められていく。

 「なぜ私は、私であって、他の誰でもないのか」——この問いを軸に据えると、ウィトゲンシュタインの思想は、前期から中期、後期へと一貫した流れをもった「物語」として見えてくる。通常、彼の哲学は前期と後期で大きな断絶があるとされるが、著者はこの独我論的視点から、その思想の変遷を一つの連続した思索として読み解いていく。その読みは、非常に刺激的である。

 しかし、著者の本当の主眼は、ウィトゲンシュタインの哲学を思想史としてあたかも既製品かのごとく把握することではないだろう。著者の言うように、哲学書の役割は、問題を発見するための誘いであるからだ。読者はそこから自らの問題を見つけ出していけばよい。
 では、ウィトゲンシュタインにとっての「私という存在」をめぐる問題とはどのようなものだったのだろうか。

私という実存的存在への問い

 「私はなぜ私であって、他の誰でもないのか?」
 「私はなぜ今、ここで、このような存在として生きているのか?」

 この問いは、「存在している」ということそのものへの驚きから発している。私たちはふだん、他の物事と比較して「不思議だ」「変わっている」と驚く。しかし、それは相対的な驚きにすぎない。それに対して、「なぜ“ある”のか?」という問いは、他と比較する以前に立ち現れる、絶対的な驚きである。

 もちろん、私たちの存在を説明する方法はいくつもある。生命の誕生を生物学的に説明することもできるし、宇宙の起源を物理学で論じることも可能だ。宗教や神話による説明もあるだろう。しかし、そうした説明が対象とするのは、誰にでも当てはまる「一般化された存在」としての私にすぎない。

 しかし、本当に問いかけたいのは、他の誰でもなく、「この私」が、なぜ今、ここに、こうして存在しているのかということだ。なぜ私は別の時代や場所、あるいは人間ではない別の存在としてではなく、このかたちで生きているのか? そこにはどんな必然性があるのか?——この問いには、誰も答えることができない。

 確かに、このような実存的な問いは、他人に理解してもらうのが難しい。だが私は、これが著者のいうような特別で孤立した問いだとは思わない。むしろ、内省的な傾向のある人なら、一度はこうした疑問に直面したことがあるはずだ。ただ多くの人は、それを「深刻な問題」としてではなく、「答えようのない戯言」として忘れ去ってしまう。忙しい日常の中で、立ち止まって考え続けることができないだけなのだ。

 しかし、ウィトゲンシュタインはこの問題にこだわり続け、それを軸に哲学を築いていった。

 彼にとって、「この私の存在」という問いは、他者と共有されることのない、深く個人的な問題であり、それゆえに「語りえないもの」であった。もし誰かが「君の抱えている問題はよく分かる」と言ったとしたら、ウィトゲンシュタインはその人とは問題を共有できないと答えただろう。それは、理解されるべきものではなく、理解されてはならない領域だったからだ。

 このように「一般化されない自己」への問いは、ウィトゲンシュタインにとって倫理と深く結びついていた。倫理とは、客観的な理論や規範ではなく、それぞれの個人が自らの存在と向き合い、自らに引き受けなければならない問いとしてあった。
 私はこの姿勢に、キリスト教的な「原罪」の意識を感じる。少なくとも若き日のウィトゲンシュタインにとって、倫理とは極めて切実な問題だった。彼が同性愛を自らの「罪」として受け止めていたことも、その背景にあったのかもしれない。

『論理哲学論考』——語りうることと語りえぬことの境界

 こうした実存的な問題意識から、ウィトゲンシュタインの初期の仕事は、必然的に「科学」と「倫理」の領域を峻別する方向へと進んだ。その成果が、彼の前期を代表する著作『論理哲学論考』である。

 本書の中心的主題は、「言語批判」であり、言語の可能性の条件——言語が意味あるものとして成り立つ条件——すなわち「語りうること」の限界を明らかにすることにある。私たちは日々、さまざまなことについて語り、あらゆる言説や思想が意味を持つと信じている。だが、そもそも言葉は、いかなる根拠によって「意味あるもの」として成立しているのだろうか?もし意味の成り立つ根拠が曖昧なままであれば、すべての言説、すべての思想、そして日常会話にいたるまでが、空虚で無意味なものとなりかねない。

 当時の形而上学的哲学、特にドイツ観念論の伝統は、検証不可能なまま壮大な言語体系を構築していた。ウィトゲンシュタインの言語批判の背景には、そうした哲学的慣習への強い懐疑があったといえる。しかし私は、彼の問題関心の根底にあったのは、むしろ人々の「倫理に対する欺瞞的な態度」への強い不信だったのではないかと考える。偽善的な道徳語りや表面的な懺悔——そうした言葉の濫用を、彼は徹底的に排除しようとしたのではないだろうか。

 「言葉は、意味のあるものとしてのみ使われるべきである。語りえないものについては沈黙せねばならない」
 ——これは単なる言語哲学の原理ではなく、ウィトゲンシュタインにとって明確な倫理的態度だった。

 では、彼は言語が「意味あるもの」として成立するための条件をどのように捉えたのか。

 まず、私たちは世界における「事実」を経験的に把握することができる。そして、言葉はそれらの事実を表現する手段である。だが、言葉が意味をもって事実を伝えるためには、言語と世界の間に何らかの「構造的な対応関係」が存在していなければならない。ウィトゲンシュタインはこれを「論理形式の共有」と呼び、言語が世界と同じ構造(論理的なかたち)を持っていることを、前提として認めねばならないとした。

 この関係は経験的に検証することができない。だが、もしこの前提を否定すれば、言語はそもそも何も意味あることを伝えられなくなる。したがって、「言語は世界と構造を共有している」という命題は、否定可能な理論ではなく、言語の意味を認めるなら先験的に承認せざるを得ない条件なのである。

 こうしてウィトゲンシュタインの初期理論、いわゆる「写像理論」は成立する。世界と命題は同じ論理構造をもっており、言葉はそれを“写し取る”ことで意味を持つ——それがこの理論の骨格である。

 この理論に基づけば、「意味ある命題」とは経験的に検証可能なものであり、逆に検証不能な命題——たとえば宗教的な言説や倫理的断定、形而上学的主張——は、そもそも「意味を語ってはいない」ことになる。

 こうしてウィトゲンシュタインは、世界について「語りうること」と「語りえないこと」を厳密に区別する。その上で、彼にとって真に重要だったのは、むしろこの「語りえないこと」だった。世間にあふれる浮薄な倫理談議や道徳的おしゃべりを断ち切ること。沈黙によって語りえないものに対峙すること。それこそが人間としての倫理的態度なのだ——彼はそう考えていた。

 しかし、こうした「言葉の厳密な使用」に徹した姿勢は、やがてウィトゲンシュタイン自身にとって重荷となっていく。言語を論理構造に還元し、意味を徹底的に制限することは、むしろ言葉本来の多様性や柔軟性を歪めてしまうのではないか——そうした疑念が芽生えたとき、彼の後期哲学が始まる。

 ここから、彼は「言語ゲーム」という新たな理論を展開していくことになる。

言語ゲームと語りえぬ「私」——後期ウィトゲンシュタインにおける実存の位置

 一般に、ウィトゲンシュタインの後期思想——とりわけ「言語ゲーム」理論——は、私的言語の可能性を否定し、前期における独我論的立場を克服するものとされている。「言葉の意味とは、それが使われる文脈=言語ゲームの中での使用にある」という考えは、言語を個人の内的世界に属するものではなく、社会的実践の中に根ざしたものとして捉える点において、初期の論理的構造主義から大きく転換するものだった。

 ウィトゲンシュタインによれば、言語とは数学のような厳密な体系ではなく、私たちが日常的に行う多様な活動——命令、質問、物語、祈り、告白、皮肉など——の中で、それぞれ異なるルールのもとに用いられるものである。これを彼は「言語ゲーム」と呼び、言葉の意味をその「使われ方」によって理解すべきだと主張した。

 この理論に基づけば、言葉とは生まれながらにして社会的なものであり、使用の規則もまた共同体の中で成立する。したがって、誰にもアクセスできない内面の経験や感覚を、本人だけが意味づけする「私的言語」は成立しえない。つまり、言語ゲームにおいて語られる「私」は、常に他者と共有される形式に依拠しており、そこでは実存的で固有の「私」はあらかじめ一般化されてしまうことになる。

 この点に基づき、言語ゲーム理論はしばしば「独我論の解体」として理解されてきた。言語が社会的な制度である限り、独我的な内面の表現は成立せず、ゆえに前期に見られたような実存的な「私」への問いも消滅した——と。

 だが、著者・永井均氏はこの一般的理解に再考を促す。たしかに、言語ゲームの枠内で語りうる「私」とは、あくまで他者と共有可能な自己——すなわち、社会的に構築された言説の対象である。しかし、それによって「語りえないものとしての私」が消滅したわけではない。むしろ、「言語化できないがゆえに語りえないもの」としての私——前期において倫理の核心に位置づけられていたこの存在は、言語ゲーム理論によって、その語りえなさがいっそう明確になったのだといえる。

 すなわち、言語ゲームが照らし出すのは、「語られえぬ私」の明確な位置づけである。独我論的立場は、言語ゲームの内部では成立しない。しかし、そのことによってむしろ、「語りえないものとしての私」がいよいよ鮮明に浮かび上がるのだ。
 後期ウィトゲンシュタインにおいて行われたのは、「独我“論”」の解体であって、実存的な「私」そのものの否定ではない。

 言語によって共有可能なものを「語りうること」とするならば、その枠の外に置かれる語りえぬ「私」の存在は、哲学の中でなおも問い続けられる。永井氏の解釈によれば、後期ウィトゲンシュタインにおいても、「実存的な私」は沈黙の彼方に留まりつつも、なお存在論的・倫理的な重みをもった対象として残り続けている。

 このようにして、前期における論理的沈黙の向こうにあった倫理への志向は、後期においてもかたちを変えて生き続けている。永井氏は、「私という実存的存在」を一貫した視点の軸としながら、ウィトゲンシュタインの思索の歩みを丹念に追いかける。その解釈は、ウィトゲンシュタインを単なる言語哲学者としてではなく、深い倫理的問いを抱えた思想家として読み直すものであり、非常に刺激的かつ示唆に富む。

 本書は、「考えること」とは何かをあらためて問い直す契機を与えてくれる。今まで「問い」としてみなされなかった場面に新たに「問い」を見出し、それに真摯に向き合い続けようとする姿勢こそ、哲学することの核心なのだということを、改めて教えてくれる一冊である。

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