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樺山紘一『ルネサンス』(1993)
近代性の陰に隠れたもう一つのルネサンス像
人間中心主義と合理主義的精神———
14世紀以降のイタリアに始まり、ヨーロッパ全域に広がった古典文芸復興の運動は、キリスト教中心の中世的世界観からの脱却を志向するものであった。個人の理性や人間の尊厳を重視する精神は、のちに「人文主義(ヒューマニズム)」と呼ばれるようになり、この運動は「ルネサンス(再生)」として歴史に刻まれることになる。
19世紀の歴史家ミシュレーやブルクハルトは、このルネサンスを近代ヨーロッパの出発点、すなわち個人の自立、芸術の自由、そして合理主義の萌芽として捉えた。彼らによって定式化された「ルネサンス=近代の夜明け」という歴史観は、長らく支配的であり続けた。
20世紀以降の見直し:中世との連続性と非合理の側面
しかし20世紀に入ると、こうしたルネサンス像に対して見直しの動きが現れる。イギリスの歴史家フランセス・イェーツは、ルネサンスにおける神秘思想、オカルティズム、ヘルメス主義、カバラなどの復興に注目し、合理主義一辺倒では捉えきれない多面的なルネサンス像を提示した。
また、アメリカの歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキンズは、12世紀の西ヨーロッパにおいても古典文献の翻訳や大学制度の成立といった文化的革新が起きていたことに注目し、「12世紀ルネサンス」という概念を提唱した。これにより、ルネサンスは突如中世を断ち切って現れたのではなく、中世の内部からすでに近代への胎動が始まっていたことが強調されるようになった。
「光の時代」の背後に潜む影
この20世紀の新たなルネサンス像は、特に、これまであまり語られてこなかったルネサンスの「暗い側面」を描き出そうとしている。例えば、ペストの流行による死の恐怖や終末思想の流行、新プラトン主義や錬金術、占星術への傾倒、そして魔女狩りの高まりといった現象は、理性と進歩の時代と見なされてきたルネサンスが、同時に非合理や狂信、退行の時代でもあったことを物語っている。
こうした視点は、ルネサンスを単なる「近代の出発点」としてではなく、中世的要素と近代的要素が交錯する複雑な過渡期として捉え直す契機となった。
本書の立場:ルネサンスの「非近代性」への注目
本書もまた、こうしたルネサンス像の転換に連なる立場をとっている。つまり、「近代の黎明」としてのルネサンスを称揚するのではなく、その背後に潜む非近代的思考や精神的土壌に焦点を当てる。合理性と神秘性、進歩と退行、光と影がせめぎ合うこの時代を、単線的な進歩史観ではなく、重層的な文化の交差点として描き出すことを本書の目的としている。
ルネサンスの始まり──古代復興と人文主義の胎動
1550年、フィレンツェの建築家ジョルジョ・ヴァザーリは、『イタリアの至高なる建築家、画家、彫刻家たちの生涯』を出版した。この書物において彼は、中世の建築様式を蔑称的に「ゴシック」と呼び、これに対して13世紀中頃からイタリア、特にトスカナ地方において古代ローマ風の建築が復興され始めたことを指摘している。
ヴァザーリの見解は、すでに当時のイタリア人たちの間に、古代文化の再生=「ルネサンス」への明確な自覚が芽生えていたことを示している。
この「古代復興」への志向は、建築や芸術だけにとどまらず、政治の場面にも反映されている。
1348年、ローマで古代ローマの栄光を再現しようとする政治運動が現れた。これは、当時アヴィニョンに滞在していたローマ法王をローマに呼び戻そうとするもので、首謀者の名前をとって「リエンツォ事件」と呼ばれる。最終的にこの運動は失敗に終わるが、そこには単なる宗教改革を超えて、古代ローマの精神的遺産への郷愁と再現への欲求が潜んでいた。
こうした流れを引き継ぐかたちで、15世紀にローマ法王庁がアヴィニョンからローマへと帰還すると、法王ニコラウス5世は1450年の聖年(ユビレウム)に合わせて、古代都市ローマの復興を意図した大規模な都市改造を推進した。その様式は明確に古代ローマ建築を模倣しており、これはローマ市民に古代の記憶と誇りを喚起させる象徴的な出来事となった。
古代ギリシア文化の再発見もまた、イタリア・ルネサンスに深い影響を与えた。
1394年、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)から派遣された聖職者マヌエル・クリュソロラスが、イスラム勢力の脅威に対する支援を求めてローマを訪れた。この訪問は、外交的な成果よりも、文化的な影響においてはるかに重要な意味を持っていた。クリュソロラスの到来は、イタリアの知識人たちにギリシア語および古代ギリシア文化への関心を呼び起こす契機となった。
ビザンチン帝国の公用語はギリシア語であり、ビザンチン文化を守ることと古代ギリシア文明の復興は同じようにして受け止められていく。そして、イタリア各地に西欧文明への防衛意識とギリシア熱を生む。
ギリシア語は当時の西ヨーロッパにおいて、すでに忘れられつつあった言語であった。しかし、この再接触を契機として、古代ギリシア語の学習と古典文献の翻訳が再び盛んになり、ルネサンスの知的基盤を形づくっていくことになる。
さらに、14世紀末から15世紀にかけて、ビザンチン帝国がオスマン帝国による圧迫を受ける中、多くのギリシア語学者や文献がイタリアへと流入した。彼ら亡命学者によって、古代ギリシア哲学、文学、科学に関する知識が再導入され、フィレンツェやローマを中心にギリシア古典の研究が盛んになった。この動きが、人間中心の価値観や世俗的知の重視を特徴とする「人文主義(ウマニスム)」の発展を促すことになる。
このように、建築、政治、思想、学問など多方面において古代文化の再評価が進んだことで、イタリアはキリスト教的中世の枠組みから徐々に距離をとり、世俗的人間観に基づく文化の中心地へと変貌していった。ただし、その過程は決して一方通行ではなかった。古代復興を推し進める動きの背後には、依然として宗教的権威の圧力や中世的価値観が根強く残っており、人文主義的潮流はしばしばこうした反発とせめぎ合いながら発展していったのである。
多様な顔を持つルネサンス──合理と神秘、死と再生の交錯
1347年、南イタリアにおいて黒死病(ペスト)が流行し始める。1349年には一旦収束したものの、その後も14世紀を通して断続的な流行が繰り返され、多くの命が失われた。都市人口の激減と社会的混乱は、イタリアの人々に強烈な死の観念を植え付けると同時に、「今を生きる」現世主義や、来世よりも個人の存在に価値を見出す思想を育む土壌となった。このような死生観の転換は、ルネサンスにおける個人主義的芸術や思想の発展とも無縁ではない。
さらに、イタリアの商業都市においては、すでに中世後期から商人的合理主義に基づく個人主義が形成されつつあった。商人たちは自らの野心や冒険心を原動力に商業活動を展開し、それに伴ってリスク管理のための保険制度や株式会社の形成、複式簿記、手形や為替といった高度な商業技術を発展させていった。このような経済合理性に裏打ちされた都市文化も、ルネサンスの精神的背景の一部をなしている。
一方で、ルネサンスには合理性とは相容れない、神秘的・非合理的な思想潮流も存在した。イスラム世界やビザンチン帝国から伝来した占星術、錬金術、カバラ的思想といった知識は、15世紀後半のフィレンツェを中心に広く受容された。とりわけ、フィチーノによって翻訳された『ヘルメス文書』は、宇宙と人間の神秘的関係を説くヘルメス主義思想の拠り所として注目され、ルネサンスの神秘主義的側面を支える重要なテキストとなった。フィチーノはさらに『プラトン神学』を著し、古代プラトン哲学を神秘的解釈で読み直す新プラトン主義の潮流を強化した。
このように、ルネサンスは必ずしも「合理主義と近代精神の出発点」として一義的に語られるべきものではない。その背後には、死の恐怖と現世主義、商業的合理主義と宗教的神秘主義、知の探求とオカルト信仰といった、矛盾しながら共存する多様な要素が存在していた。ルネサンス文化とは、そうした異質な力のせめぎ合いから生まれた複合的現象に他ならない。
歴史とは決して断絶的なものではなく、連続と変容のうちにある。ルネサンスを境に中世と近代が明確に分断されるわけではなく、中世的要素を色濃く残しながら、近代へと向かう緩慢で複雑な移行がなされていったのである。ルネサンスとは、単なる「近代の始まり」ではなく、中世の延長線上にありながら、部分的に近代性を孕んでいた過渡的現象であると捉えるべきだろう。
本書は、ルネサンスの全体像を包括的に描き出すような通史ではない。むしろ、ルネサンス期にまつわる多様な逸話や断片を集め、それぞれのエピソードを通じて、ルネサンスがいかに複雑で多面的な現象であったかを浮かび上がらせている。合理と非合理、希望と絶望、革新と伝統──それらが交錯するルネサンスの豊かな多様性を実感させてくれる、興味深い一冊である。
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