彼女は言った。『では、以上をまとめると、こうなる――エロスは、よいものを永遠に自分のものにすることを求めているのだと』
哲学的文学作品
舞台は、前416年のアテナイ。ソクラテスは53歳で、壮年を迎えている。
『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』とソクラテスの死を見つめ、その晩年の姿を描いたプラトンだが、一転、この作品では、活力に溢れ、生を謳歌しているソクラテスの姿に焦点を当てている。哲学を議論するソクラテスではなく、愛を語るソクラテスだ。対話よりも一人ひとりの演説が中心に据えられ、エロスへの讃歌が描かれていく。
この作品には、哲学書としてではなく、なによりもまず、文学書として仕上げようとしたプラトンの意図が窺える。プラトンは、当時を代表する一流の弁論家、思想家たちの語る数々の物語の美しさにこそ、その価値を見出だそうとしていたように思える。そこに登場する人々は、哲学や思想を議論する以前にまず、愛や芸術に陶酔している。
物語が後半に進むにつれ、哲学的な含意に富む逸話が多く描かれ、寓話としての性格が強くなる。哲学と文学の融合が図られていて、プラトンのその他の対話篇とは趣を異にした作品だ。
酒宴の趣向として、エロスへの賛美を互いに行おうと提案したエリュクシマコス。それにソクラテスをはじめとした饗宴の場に集まった一同が賛同することころから、この物語は始まる。
古代ギリシアの風習
この作品の中で描かれる饗宴(シュンポシオン)と少年愛(パイデラスティア)は、古代ギリシアの風習で、前5世紀には市民の間に広く定着していた。
饗宴は、前8世紀頃に始まりローマの末期まで続いた風習で、アンドロンと呼ばれた部屋で、壁沿いに置かれた寝椅子(クリネ)横たわり、酒と料理を供した宴会のことで、男性市民の社交の場として開催された。ヘタイラと呼ばれる娼婦や笛吹なのど芸妓も同席した。
少年愛は、成年男子が少年(12歳から18歳ぐらいまで)を対象に性的関係を結ぶもので、成年男性の方は、少年に対して、教育的、指導的役割を負うことも期待された。小児性愛、同性愛、師弟関係など多様な要素が融合した習俗で、古代ギリシアでは、しばしば、恋愛関係の中で最も理想的で高尚な関係性と捉えられていた。
プラトンの『饗宴』のなかでも、はじめに演説を行うパイドロスは、このパイデラスティアへの賛歌を謳っている。
エロスへの賛歌
饗宴の中で、パイドロスはエロスへの賛美として、少年愛への自己犠牲と自己克己を最も尊いものと説く。
パウサニアスもまた、異性への愛より、少年への愛の方が、肉体より精神、欲情より理性に基づいた愛であり、より純粋で崇高だという。
古代ギリシアの風習や価値観を前提としたこれらのエロスへの称賛は、現代的価値からはそぐわない点も多々あるが、愛という他者への欲求を昇華し、美化しようとするのは、芸術の根源的なものとして、人類に普遍的なものだと言える。
この二人の称賛に共通している考え方は、愛それ自体を自己目的とした際、愛は最も尊いものとなるという考え方である。純粋性への希求だ。
3番目に演説者として登場したのは、エリュクシマコス。彼はヒポクラテス派の医師で、愛は音楽と同じように調和のとれた姿こそ美しいと述べる。当時の医学では、体内の調和が乱れたとき病にかかると考えられていた。エリュクシマコスの説は、当時の自然科学を代表する考え方だと言っていい。
次に称賛の弁を述べたのは、アリストファネス。ソクラテスを揶揄した『雲』の作者だ。
彼の披露したエロスへの賛美こそ、この作品の中でもっとも有名な逸話である「アンドロギュノス」の物語である。
古代には第三の性として、「アンドロギュノス」が存在したという。アンドロギュノスは、顔が二つ、手足が4本ずつあった。しかし、粗暴な行いが神の怒りを買い、ゼウスによって体を二つに引き裂かれた。それ以来、失われた半身を求めて、太古の人間性を回復しようと試みることこそが愛でありエロスであるという。
まさにこれは、愛の起源を解き明かす神話的な説明の典型だと言える。
エリュクシマコスとアリストファネスの二人に共通している考え方は、二つ、あるいはそれ以上の異なる原理が調和、融合するところにエロスの尊さを見出している点だろう。
エロスそのものの価値 – アガトン
続いて、この饗宴の主催者であるアガトンは、エロスそのものへの賛美を行う。エロスは何かをもたらすがゆえに尊いのではなく、その存在そのものが美しいのだ。
愛を尊く、美しいものとして、人々が受け入れている時、それを愛以外の基準やそれがもたらす利益や効用によって根拠付けようとすることは困難だろう。世界には、さまざまな民族の宗教や価値観が多様に混在している。そのことを熟知していた地中海世界の人々にとって、人それぞれが、愛に対して異なる意義付けをし、多様な効果を期待していることは、良く分かっていたはずだ。愛はそれ自体で価値があるのだ。そうだとすれば、エロスへの賛美は、それそのものへの賛美となるほかない。
アガトンはそれを非常に文学性の高い物語として披露する。饗宴の中で最も文学的な個所だ。アガトンの説は、エロスが人間の欲求の根幹にかかわるもので、それ以上分析しようのない存在だ、ということを示唆しているように思える。
生命の根源としてのエロス – ソクラテス
アガトンによるエロスへの賛美の後、彼とソクラテスとの間で問答が始まる。例によって、ソクラテスにより、言葉の定義の問題が投げかけられる。
ソクラテスの問答によって、エロスとは、何かへの欲求として定義付けられる。そして、これを踏まえた上で、ソクラテスはディオティマという女性から聞いたというエロスの物語を語り始める。
このソクラテスの語る物語には、エロスに関しての様々な示唆が含まれている。
エロスを個人の内面から捉えようとした場合、それは自らに欠けているものを求める欲求となる。そのため、エロスの性質を説明しようとすると、自らに「欠けているもの」であると同時に、かつ、それを求める「願い」であるとされる。
だが、このようにして、エロスを対象化してしまうと、エロス自体は、欠乏であると同時に欲求であるという存在になり、その理論的な結論として両者の間にある存在として理解されることになる。
エロスは中間的なもの、または、介在的なものとして位置付けられてしまう。
しかし、エロスは、本質的に、自分に足りないものへの欲求として理解されていた。そこで、ディオティマは、エロスを対象化して見ることは、エロス本来の姿を捉えそこなうという。
エロスは、美しいがゆえに愛されるのではなく、愛するがゆえに美しいのだということ。普遍的に美しいのは、その求めるという行為の主体性にこそ存在するのであり、愛される対象の方にあるのではない。それは、人々が求める美しいものが、人ぞれぞれ異なるという事実からも明らかだ。
ここでは、エロスは対象としてではなく、主体的なものとして捉え直されている。そして、エロスの主体的側面が描かれていく。
自らにないものを求めるというエロスの欲求は、死と変化を免れることのできない存在にとって、究極的には、永遠を求める行為となる。人間にとってエロスが性愛と結びつくのは、子を宿し、子孫をもうけることが、死を克服して生を永遠なものにするための行為だからだ。
こうしてエロスの究極の意味が解き明かされる。ここには、プラトンの観念論的な宗教観が垣間見える。永遠不変なものにこそ、絶対的な価値を見出す考え方だ。それは、プラトンにとって、最終的に魂という形に集約されていく。
この魂の不変性という考え方は、プラトンの中期対話篇の中核をなす思想だ。ここには、その片鱗を覗かせている。
そして、この饗宴も酔ったアルキビアデスの闖入で幕を閉じる。
さて。
この物語から見出される現代的な意義は、どのようなものだろうか。おそらく、次のように言えるのではないだろうか。
自らに欠けているものを求めることは、すべての生命にとって根源的なものであるということ。
エロスという欲求は、生命にとっての行動原理であって、それ以上の説明を要しない。エロスの存在がどのようなものであるかを解き明かそうとすればするほど、エロスは、それそのものとして把握するよりほかなくなるような性質のものだ。プラトンはそれを永遠という価値によって根拠付けようとした。
だが、こうしたプラトンの超越的な価値による基礎づけの試みが成功しているかどうか、多分に疑問だ。
あるいは、エロスのこのような性質を理解していたからこそ、プラトンは、「永遠」という価値を持ち出さなくてはならなかったのかもしれない。