プラトン『饗宴』(385 BC?)
エロスをめぐる問い──哲学的文学作品
彼女は言った。『では、以上をまとめると、こうなる──エロスは、よいものを永遠に自分のものにすることを求めているのだと』
舞台は、前416年のアテナイ。ソクラテスは53歳で、壮年を迎えている。
『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』とソクラテスの死を見つめ、その晩年の姿を描いたプラトンだが、一転、この作品では、活力に溢れ、生を謳歌しているソクラテスの姿に焦点を当てている。哲学を議論するソクラテスではなく、愛を語るソクラテスだ。対話形式よりも、それぞれの登場人物による独白的な演説が重視され、愛の本質をめぐる讃歌が繰り広げられる。
この作品には、哲学書としてではなく、なによりもまず、文学書として仕上げようとしたプラトンの意図が窺える。プラトンは、当時を代表する弁論家や思想家たちの語る物語の美しさそのものに価値を見出そうとしていたように見える。登場人物たちは、哲学的思索に没頭する前にまず、愛や芸術への陶酔に身を委ねている。
物語が進行するにつれて、各人の演説には哲学的な含意が濃くなり、次第に寓話的な性格も帯びていく。『饗宴』は、哲学と文学の融合を試みた作品であり、他の対話篇とは異なる独自の魅力を持っている。
酒宴の趣向として、エロスへの賛美を互いに行おうと提案したエリュクシマコス。それにソクラテスをはじめとした饗宴の場に集まった一同が賛同することころから、この物語は始まる。
古代ギリシアの風習
本作に描かれる饗宴(シュンポシオン)と少年愛(パイデラスティア)は、いずれも古代ギリシアにおいて市民階級の間で広く行われていた風習であり、前5世紀には社会的に定着していた。
饗宴(シュンポシオン)は、前8世紀頃に始まり、ローマ時代の末期まで続いた伝統的な酒宴である。宴は、アンドロンと呼ばれる男性専用の部屋で催され、壁際に置かれた寝椅子(クリネ)に横たわりながら、酒と料理を楽しむ形式であった。これは、男性市民にとっての重要な社交の場であり、そこにはヘタイラと呼ばれる娼婦や、笛吹きなどの芸妓も同席することがあった。
少年愛(パイデラスティア)は、成年男子が12歳から18歳程度の少年と性的・情愛的関係を結ぶ制度的慣習である。ただし、単なる性的関係にとどまらず、成年男性は少年に対して教育的・倫理的な指導者としての役割を果たすことが求められていた。この関係には、小児性愛、同性愛、さらには師弟関係といった複数の要素が絡み合っており、古代ギリシア社会においては、恋愛関係の中でもとりわけ理想的かつ高尚な形態とみなされていた。
プラトンの『饗宴』においても、最初に演説を行うパイドロスが、このパイデラスティアの関係性を讃える賛歌を語っている。
『饗宴』におけるエロス観の諸相
饗宴において、パイドロスは、エロスを賛美するなかで、少年愛において見られる自己犠牲や自己克己の精神こそが、最も高貴な徳であると説く。すなわち、理想に従い、恋人のために命を賭ける覚悟や、自己の欲望を抑える精神的態度に、少年愛におけるエロスの崇高さを見るのである。
続くパウサニアスもまた、少年愛の精神的側面を称賛する。彼によれば、異性愛に比べて、少年愛は肉体的欲求よりも理性的・精神的な結びつきに基づいており、より純粋で高尚な愛である。ここには、単なる快楽を超えたエロスの倫理的価値が見出されている。
これらのエロス讃歌には、古代ギリシアの文化的背景や価値観が色濃く反映されており、現代的な倫理観とは相容れない側面も多い。しかし同時に、「愛」とは本来、自己の欲望──他者への所有欲・支配欲から発するものでありながら、それを乗り越え、利他的なものへと昇華させるという芸術的・精神的営みであるという考え方もそこに含まれている。この観点からすれば、愛を通じた自己超克というテーマは、時代や文化を超えて普遍的な人間の営みだと言える。
パイドロスとパウサニアスに共通するのは、「愛をそれ自体として目的化し、それを通じて純粋性を希求する姿勢」である。エロスを通じて人は道徳的・精神的に向上できる、という信念が彼らの賛美の根底にある。
3番目の演説者であるエリュクシマコスは、医学と自然哲学の立場からエロスを捉える。彼はヒポクラテス派の医師で、愛は音楽と同じように調和のとれた姿こそ美しいと述べる。当時の医学では、体内の調和が乱れたとき病にかかると考えられていた。ここでは、愛もまた、自然界に秩序をもたらす力として理解されている。彼の説は、当時の自然科学的世界観を反映したエロス観と言えるだろう。
次に称賛の弁を述べたのは、アリストファネス。ソクラテスを揶揄した『雲』の作者だ。
彼の披露したエロスへの賛美こそ、この作品の中でもっとも有名な逸話である「アンドロギュノス」の物語である。
古代には第三の性として、「アンドロギュノス」が存在したという。アンドロギュノスは、顔が二つ、手足が4本ずつあった。しかし、粗暴な行いが神の怒りを買い、ゼウスによって体を二つに引き裂かれた。それ以来、人間は失われた半身を探し求める存在となった。アリストファネスは、愛とはこの分裂した存在が本来の完全性を取り戻そうとする衝動であると説く。これは、愛の起源を説明すると同時に、人間の根源的な不完全さへの洞察でもある。
この説は、まさに愛の起源を解き明かす神話的な説明の典型だと言える。
エリュクシマコスとアリストファネスの説に共通するのは、異なる要素の統合・調和にこそエロスの本質があるとする点である。前者はそれを自然の秩序に見出し、後者は神話的な人間の分裂と統合の物語に託して表現している。
アガトンのエロス賛美 ― その本質の美しさ
次に登場するのは、この饗宴の主催者であるアガトンである。彼は、これまでの者たちが語ってきたようなエロスの効用や社会的機能ではなく、エロスそのものの本質的な美しさを讃える。
アガトンによれば、エロスが尊いのは、何かをもたらすからではなく、それ自体が美しく、善い存在であるからだ。つまり、エロスを評価する際には、その外的な成果や利益によってではなく、愛という存在そのものの価値に目を向けるべきだという。
今までの演説者が語ってきたように、愛は人それぞれに異なる価値づけがなされている。世界には、さまざまな民族の宗教や価値観が多様に混在している。そのことを熟知していた地中海世界の人々にとって、人それぞれが、愛に対して異なる意味を見出し、異なる期待を寄せていることは、良く分かっていたはずだ。であるなら、その違いをいくら議論しても愛の本質には届かない。
愛はそれ自体で価値があるのだ。そうだとすれば、エロスへの賛美は、それそのものへの賛美となるほかない。
アガトンはそれを非常に文学性の高い物語として披露する。饗宴の中で最も文学的な個所だ。アガトンの説は、エロスが人間の欲求の根幹にかかわるもので、「欲しているからこそ欲している」というように、それ以上分析しようのない存在だ、ということを示唆しているように思える。
ソクラテスとディオティマによるエロス論 ― 欠如から永遠へ
アガトンによるエロスの賛美に続いて、彼とソクラテスとの間で問答が始まる。いつものように、ソクラテスは言葉の定義を問い直し、エロスとは何かを根本から探ろうとする。
この問答の中で、エロスとは何かを欲する欲求であるという定義が導き出される。そしてこの定義を踏まえたうえで、ソクラテスは、かつてディオティマという女性から聞いたエロスの物語を語り始める。
ディオティマによるエロスの解釈は、多くの哲学的示唆を含んでいる。彼女の説によれば、エロスとは、自分に欠けているものを求める欲望そのものである。したがって、エロスは「欠如」と「願望」が一体となった存在であり、美や善そのものではなく、それらを持たないがゆえに求める存在として位置づけられる。
このように、エロスを分析的に捉えようとすると、それは美や善そのものではなく、それらへの渇望としての「中間的存在」と理解される。すなわち、エロスは無知と知、醜と美、死と不死のあいだに位置する、媒介的・介在的な存在なのだ。
だが、ディオティマはさらに一歩進めて、エロスを対象化して理解する態度に疑問を投げかける。彼女によれば、愛は「美しいから愛される」のではなく、「愛するという行為そのものに美しさがある」。つまり、美は外部の対象にあるのではなく、美を求めようとする主体的行為そのものに宿るというのである。
この観点から、エロスは単なる欲求や衝動ではなく、自己の限界を超え、永遠なるものに至ろうとする運動=生成の力として理解される。人間においてエロスが性愛と結びつくのは、子どもをもうけ、次世代に生命をつなぐことが一種の不死性=永遠性の獲得とみなされていたからである。
このように、エロスは単なる一時的な欲望ではなく、有限な存在が永遠なるものを希求するという精神的営みである。プラトンのこの解釈には、彼の観念論的宗教観が色濃く表れている。すなわち、永遠不変の「イデア」にこそ真の価値があるという思想である。そしてその思想は、やがて魂の不死性という形に収斂していく。
ここでは、エロスは、永遠を希求する生命の力そのものとして捉えられている。
この魂の永続性と価値の思想は、プラトンの中期対話篇における中核的なテーマであり、『饗宴』の中でもその萌芽が見て取れる。
やがて、この饗宴は酩酊したアルキビアデスの突入によって、神聖な対話から現実の混乱へと引き戻され、幕を閉じる。
プラトンのエロス論 ― 欠如としての生とエロス
それでは、この饗宴で語られたエロス論から、プラトンは何を伝えようとしたのだろうか。
最後のソクラテスの議論から、エロスは、生命そのものの根源的な運動であるとされた。
おそらく、その前提には、人間の「生」とは、死を免れない不完全なのもだという認識がある。「生」は不完全なものであるが故に永遠なものを希求する。「生」にとって、エロスとは、単なる感情や衝動ではなく、生きることの動因そのものとして捉えられている。
そしてこの欲望は、突き詰めていけば、他者を愛することを通じて欠如した自己を超えようとする生成的な力である。プラトンはそれを、「永遠なるもの」を希求する精神として昇華しようとし、イデアや魂の不死性という概念で理論的に基礎づけようとした。
しかし、プラトンのこの試み──エロスを超越的価値によって根拠づける試み──が、果たして哲学的に十分説得的であるかどうかは、今なお議論の余地がある。
エロスという欲求は、生命にとっての行動原理であって、それ以上の説明を要しない。エロスの存在がどのようなものであるかを解き明かそうとすればするほど、エロスは、それそのものとして把握するよりほかなくなるような性質のものだ。
むしろ、エロスという欲望の本質が、理屈や定義を超えた根源的な衝動であることを理解していたからこそ、彼は「永遠」という観念を持ち出さざるを得なかったのではないか。
この意味で、『饗宴』に描かれるエロスとは、意味付けることが不可能な存在、あるいは、意味付けようとする欲求そのもののことだと言えるだろう。
プラトン『饗宴』
コメント