ニーチェ『善悪の彼岸』(1886)
『ツァラトゥストラ』執筆後のニーチェ
『ツァラトゥストラ』全4部を書き上げたニーチェは、あまりに文学的な表現形式をとってしまったこの著作に対し、理論的な解説書が必要だと感じていた。
ニーチェが1881年に、散歩の途中で永劫回帰の着想を得て、その体験を詩的な形で表現したのが『ツァラトゥストラ』だった。彼は、『ツァラトゥストラ』を「かつてドイツ語で書かれたもっとも深遠な書」と自負していた。が、その反響は、黙殺といってよいほどのものであって、全く理解者を得ることはなかった。
文学的、詩的な表現ではなく、より理論的な解説を加えること―――こうした試みの下で執筆されたのが、この『善悪の彼岸』である。
善悪の彼岸とは、善と悪を超越したところのもの、つまり、既存の道徳的価値観を超えたもの、従来の道徳からの解放を意味している。
ツァラトゥストラは、孤高で独立不羈の精神を体現し、世俗的価値を超越しようとする「超人」として描かれていた。ツァラトゥストラにおける価値超越性は、脱俗的、非世俗的、脱社会的な立場から体現されたものだった。
だが、一方、本書における価値の超越は、社会に内属した立場からなされている。社会の内に在ってその社会全体へ、そして、さらには近代という今の時代に向けられて批判がなされている。『ツァラトゥストラ』で見られたオイディプス的諧謔の精神は、本書では全く見られない。近代という時代に対する徹底的な批判と糾弾が、本書の狙いであり、近代的な価値全ての転倒が企てられているのだ。したがって、本書は非常に論争的で、偽悪的な反社会的姿勢がとられている。
『善悪の彼岸』は単なる『ツァラトゥストラ』の解説書ではない。『ツァラトゥストラ』が個人の生き方としての「超人」を示し、個人の意識変革を求めていたとすれば、『善悪の彼岸』は、「超人」という観点から、社会の在り方を問題としている。社会変革と時代批判の書であり、社会の価値観の転倒を企てている。この二つの書は、その意味で、全く批判の方向性が異なる書だ。
ここで思い出してもらいたいのは、ツァラトゥストラが、孤高に生きる脱俗的な人物だったということだ。社会に属さない個人の立場から、「超人」の到来を告げた、いわば預言者だった。彼は街に降りて、永劫回帰の思想と超人の到来を伝導した。だが、それを人々が信じるかどうかは、彼にとって問題ではなかった。付いて来る人のみが、付いてくればよく、彼はただ飲み、踊り、請われれば教えを説く遍歴の者だった。そして最後は、自らが超人として生きるべく、また一人で孤高の旅に出る。
脱俗的な立場から「個」としての在り方を示して見せただけで、決して個人に強制し、社会の変革を目指すものではなかった。それがツァラトゥストラの倫理性を保証していたと言える。
だが、『善悪の彼岸』で問題とされているのは、個人の在り方ではなく、社会の在り方である。問題とされているのは、民族、国家、階級であり、そのなかで、「家畜の群れ」として生きる大衆に対して、徹底的な批判が加えられている。
『善悪の彼岸』とそれに続く『道徳の系譜』は、ニーチェの哲学的主著と見做されることが多いが、この両書は、極めて反社会的な姿勢に貫かれていて、読み方を誤れば、非常に危険な書となる側面も持ち合わせている。実際、ナチスを正当化する理論書として読まれてきた歴史がある。
「超人」に代わって、本書でより重要な概念となっているのは、「力への意志」である。
読者は、「力への意志」という言葉によって、ニーチェが何を意図しようとしていたのか慎重に読み取っていく必要がある。「力への意志」は哲学史上、非常に論争の絶えない言葉だ。この言葉によってニーチェは何を解き明かそうとしていたのか。
「力への意志」とは何か
ニーチェの人間理解は、人は己の生の可能性を最大限に引き出そうとするものだ、というところから始まる。人間の生は、自己保存の欲求を第一とするものではなく、生の可能性を試すものだというのがニーチェの理解だった。
だが、社会の道徳は、この「力への意志」を矯正し、社会にとって安全なものへと歪めようとする。「角を矯めて牛を殺す」といった体で、社会の道徳は、高貴な人間の意志を抑圧し、圧殺する。
ニーチェは、この「力への意志」を歪める道徳が、現代のヨーロッパの精神と社会を形作っていると見ている。それは、哲学、科学、宗教、政治といったあらゆる分野にまたがり、それらを根底から規定している。
そこでニーチェは、この道徳が生まれたその起源を明らかにすることで、近代ヨーロッパを覆うすべての価値観の転倒を試みる。ヨーロッパ近代の科学と学問は、価値中立的であることを標榜し、客観的に論証、あるいは、証明できることを信条としていた。だが、その根底には道徳という価値判断が存在していることをニーチェは見逃さなかった。
したがって、ニーチェにとっては、近代という時代の価値批評を行うためには、道徳の解明こそが最も重要な課題だったのだ。
そこで、ニーチェが見出したものが、「家畜の群れ」による道徳である。この「家畜の群れ」の道徳は、「力への意志」を持つものを危険と見做し、排除しようと試みる。「出る杭は打たれる」といった具合に、すべての人間の精神が平準化されていく。
この道徳が、認識における真理、科学における客観性、政治における平等、宗教における弱者の勝利をもたらしている根本的な要因とニーチェは見做していた。すべては、平準化の道徳がもたらしたものだ。
これによって失われるのは、人間の「高貴なる精神」である。そして、高貴なる精神を失った社会は、創造と発展を止める―――
これが、ニーチェの行った時代診断である。
「家畜の群れ」のみに批判の目を向けたニーチェの誤り
ニーチェによれば、この「家畜の群れ」の道徳は、道徳における奴隷の反乱によって生まれたという。この道徳が発生する機制と歴史に関しては、次の『道徳の系譜』によって、より詳細に考察されることになる。
『善悪の彼岸』において、より重視されているのは、道徳の起源ではなく、その結果の方だ。人間の精神を平準化しようとする道徳が、高貴な精神を抑圧している。
しかし、高貴な精神が、なぜ、こうも易々と、奴隷精神の反乱によって取って代わられてしまったのか、その理由は、ニーチェの説明からは全く見えてこない。ただ、高貴な精神を歪めた原因となった「奴隷」と「家畜の群れ」に対する容赦ない批判が展開されているだけだ。
「家畜の群れ」が歴史上、優勢となったのだとすれば、その根拠は何だったのか。その説明がないまま、道徳批判を展開することは、強者の理論を弱者に対して、何の根拠もないまま無理に押し付けていることに等しい。
高貴で優れた知性をもった精神が、なぜ不遇な立場に置かれているのか――それは、家畜の群れによるルサンチマン、そして民主主義という平準化の時代精神のせいだ――そのような考えの背後には、社会に対して、ひとり恨みを募らせている姿が浮かび上がる――まるでラスコーリニコフのように。
ニーチェの時代診断そのものが、見方を変えれば、ルサンチマンの産物そのものではないのか――
弱者が社会を支配しているとして、それはなぜ可能になったのか、その根拠があいまいな道徳批判は、そのような懐疑を呼び起こす。
ニーチェは、『ツァラトゥストラ』で示したように「力への意志」を体現し、「超人」として生きる個人の在り方をより問題とするべきであった。だが、彼は、その超人としての生き方を阻害する「家畜の群れ」つまり、大衆の方に徹底的な批判の目を向けた。ここにニーチェの根本的な誤りがあったように思う。
「高貴な精神」は、なぜ、こうもあっさりと「家畜の群れ」に敗れ去ったのか。「家畜の群れ」が本来人間を高みへと押し上げる「力への意志」を捻じ曲げる今の社会を作ったのだとすれば、それはなぜ可能だったのか。この点に関するニーチェの説明は、すっぽりと抜け落ちている。
ニーチェはこの書の執筆以降、徐々に精神錯乱の症状を見せ始めるようになる。すでにこの時、ニーチェ自身がルサンチマンに取り込まれつつあったのかもしれない。