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近代知への反論 – 中村雄二郎『臨床の知とは何か』

科学半解

中村雄二郎『臨床の知とは何か』(1992)

臨床の知の発見

 近代科学は、普遍性・客観性・論理性を中心原理として、現実を対象化してきた。だが、その一方で、こうした枠組みから排除されてしまった「異なる現実」が存在するのではないだろうか。

 それを中村氏は「臨床の知」と呼ぶ。では、この「臨床の知」とは一体何なのか——。

 本書の記述に沿って要約すれば、それはおおよそ次のようなものである。

 科学的知は、仮説的な理論に基づき、因果律に従う現実を分析的に扱い、それを操作可能な対象として捉える。そこで得られた知識をさらに、抽象化して、より一般的、普遍的なものへと彫琢していく。
 それに対して、臨床の知は、個別の事例や状況を重視し、より深層の実存的現実に関与する。すなわち、世界や他者が私たちに示す隠れた意味を、相互行為のなかで読み取り、捉える働きを持つ。この臨床の知は、固有の世界観、多義的な象徴、そして身体性を備えた行為を基盤として構成される。

 これは、科学における一般性・一義性・抽象性に対する、明確な対立項として位置づけられる。普遍性に対して、実存を重視する知のあり方と言えるだろう。

 しかし、それだけであるならば、いわゆる実存主義とどこが異なるのだろうか。
 臨床の知とは、果たして何を目指したものなのだろうか。

生命の総体的把握へ

 17世紀のヨーロッパでは、自然科学が急速な進歩を遂げた。天文学や物理学を中心に、実験と観測、数学による理論の定式化といった方法論が一般化し、科学の各分野に多大な影響を与えた。
 それまで支配的だった中世的な目的論的世界観は打破され、因果関係に基づく機械論的世界観がその代わりとなった。17世紀以降、この世界観が近代科学における知の主流となっていく。

 しかし、生物という有機体を対象とする医学の分野では、この機械論的考え方は容易には受け入れられなかった。だが、19世紀の病理学の発展により、病因と症状を因果関係として捉えることに成功し、医学においても徐々に身体を因果論的・機械論的に解釈する見方が主流となっていった。

 臨床の知とは、生物という現象をもう一度、有機的・全体論的な世界観の中で捉え直そうとする試みであると言えるだろう。
 病理学における因果論的解明は医療に大きな進歩をもたらした一方で、生命を全体として捉える視点を見失わせてしまった。いかに多くの因果関係を明らかにしたとしても、生命そのものの存在が浮かび上がってくるわけではない。

 医療とは、生命を扱う営みである。その医療が、生命という存在を見失ってしまうというのは、なんとも皮肉なことである。
 近代医学の中で見過ごされてきた、全体的な知を探る試み——それが臨床の知であるという本書の解釈が妥当だとすれば、では、それはどのようにして可能となるのだろうか。

 中村氏によれば、臨床の知は、直観・経験・類推の積み重ねによって成り立っている。したがって、そこでは「経験」が大きな意味と役割を持つことになる。
 経験とは本来、それ固有の一回性を持つ出来事であり、科学的知の枠組みでは排除されてきた。近代科学は、仮説・演繹的推論・反復可能な実験という構造によって成り立ち、再現可能性を基盤としている。ゆえに、直観の累積としての経験は、その構造が明確に把握されることなく、曖昧なままにされてきた。

 だが、経験とは自己を発見する原初的な契機であり、自己の存在を支える基盤でもある。経験によってはじめて、自己の存在が確認される。したがって、経験は常に自己に固有の実存的な性格を帯びて現れる。

 しかし近代科学では、経験は客観的な尺度によって測定可能なものとされ、一般化されていく。計量化された経験は自己の外部にあるものとして客体化され、ここに経験が「外在化」と「内在化」という二つの方向へと分化していく契機が生じる。このような経験の二重性は、たとえばニュートンの光学理論とゲーテの色彩論の対立にも見て取ることができる。この対立は、単なる客観性と主観性の対立ではなく、「対象化された客観性」と「経験の共同主観性」の違いにあるのである。

 そこで、固有の経験の累積に基づく新たな知性が求められる。科学が「まなざしの知」、すなわち視覚中心の知であるのに対し、臨床の知は、複数の感覚の協働に基づく「共通感覚的な知」だとされる。
 おそらく、ここで指摘されていることの意味を解釈するならば、それは次のようになるだろう。すなわち、五感すべてを統合した「共通感覚」から得られるのは、認識(cognition)ではなく、世界像(cosmology)である。

 臨床の知は、この世界像に根ざした経験に基づいて構築される知である。そして、その知をもとに、近代的知性の枠組みから取り残されてきた医療の新たな分野へと踏み出していかねばならない。それが、生命倫理の分野であるというのだ。

新たな生命倫理の問題

 脳死に関する問題は、「生命」と「死」の境界という新たな課題を浮き彫りにした。

 アメリカにおける脳死を巡る議論は、「倫理」と「実用」という二つの局面が分離し、二極化している。一方には、臓器提供や医療費の削減といった実用主義があり、もう一方には、臓器提供によって他者の生命を救うという人道主義がある。こうした倫理と実用のはざまで、提供者の意思をいかにして担保するかという問題が浮上し、責任主体や提供者の人格権といった新たな倫理的課題を生んでいる。

 一方、日本では、医療技術の急速な進歩により技術的実用主義が独り歩きする一方で、倫理観は伝統的な死生観に引きずられたままで、十分に発展していない。日本社会は、相反する価値観を異なる次元で柔軟に併存させることに長けているが、実践的で曖昧さを残さざるを得ない問題に対しては、理論的な詰めが甘く、議論が収束しにくい。その結果、社会的合意の形成が進まず、慎重論に押されて問題がいたずらに先送りされてしまうのである。

 「説明と同意(informed consent)」も、医療現場に新たな課題をもたらしている。この問題は、医師と患者との関係性を改めて問い直す契機となった。重大な結果責任を伴う治療において、その決断は誰が担うべきなのか。医師と患者が互いに責任主体として向き合う関係性をいかに再構築できるかが問われている。

 このような関係構築において問題となるのは、主に二つである。一つは、父権的な保護主義に基づく代理同意であり、もう一つは、母権的な抱擁主義による責任の所在の不明確化である。日本では、後者の傾向が顕著である。説明責任が曖昧になりやすく、その結果として、医師・患者・家族の間で決定主体が不明確な「雰囲気」の中で医療行為が行われることが少なくない。責任の所在が関係者全員に分散され、結果的に誰も責任を明確に引き受けない構造となってしまっている。本人の自己決定という意識が育ちにくく、同時に責任の明確化も困難になるのだ。

 このような医療現場における生命倫理の問題に対して、臨床の知はどのように切り込んでいくことができるのだろうか。

臨床知の役割と今後

 臨床という医療の現場に根ざした具体的な知性によって生命倫理を捉え直す作業は、現代においてますます重要性を増している。しかし、本書が指摘する、累積された固有の「経験」に基づく「臨床の知」は、果たして実際の医療現場において意味ある成果を生み出すことができるのだろうか。

 本書の試みである「臨床の知」は、その基盤となる「経験」をいかに共有可能な知性として構築できるかどうかに、その成否がかかっている。ところが、本書では、観念的な議論ばかりが展開され、固有の経験を共有可能な知性へと転換する明確な方法論はほとんど示されていない。

 近代の知性が捉えきれなかった固有の「経験」を、近代的知性に対する反論としてあえて概念化しようとすること自体が、そもそも矛盾を孕んでいたのではないか。近代科学批判ばかりが先行し、その代替となる知の構造は明示されない。対立項(antithesis)だけが提示され、肝心の「経験」や「臨床の知」といった本来概念化されるべきものが、十分に概念化されずに終わっている。

 近代知性に対して対立項を提示したい、近代科学を乗り越えたいという願望は、日本の思想史にしばしば見られる一種の「病」とも言えるだろう。臨床の知は、本来、現代医学において取り残されてきた生命倫理という新たな問題に、実践的な知性として切り込む可能性を持っていたはずである。だからこそ、臨床の知をより理論的に体系化し、その方法論を明確に概念化することが求められていたのではないかと思う。それこそが、今後ますます重要な課題となっていくはずである。

 本書は、まさにそのような「課題」を提示する意義を持った書であったと言えるだろう。

中村雄二郎『臨床の知とは何か

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