スイレン

原始仏教入門 – 中村元『ブッダ伝 生涯と思想』(1995)

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中村元『ブッダ伝 生涯と思想』(1995)

ブッダ本来の教えを知る

 ガウタマ・シッダールタは、紀元前五世紀頃、インド北部、ネパール国境付近のシャーキャ国の王族として生まれ、29才で出家、6年間の修行ののちに悟りを開き、その後は80才で入滅するまで北インドを中心に45年間説法をして廻った。

 仏教はその成立後、1世紀頃には大乗仏教が登場し、中国で漢訳され、日本で独特の解釈を基に発展している。
 現代の仏教は、様々な宗派に細分化していて、原始仏教本来の姿は見えづらくなっている。

 本書は、紀元前後、大乗仏教以前に編纂された最初期の仏典『スッタニパータ』『サンユッタ・ニカーヤ』『ダンマパタ』『ウダーナ』『テーラガーター』『テーリーガーター』『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』を中心に、当時の社会背景を交えながら、ブッダの思想と人物像を浮かび上がらせている。
 語り口も非常に平易で、分かりやすい。ブッダ本来の思想を知るのに、初めに読むとよい入門書。

執著という苦しみ

 ブッダが自らの思想を築き上げていった時代は、バラモン教の腐敗が顕著になり、その権威が揺らいでいた時期で、べレナスを中心にバラモン教学に対峙する新しい思想が次々に生まれていた。ジャイナ教のマハーヴィーラなど「六師外道」と呼ばれた新しい思想家たちが登場し、自らの哲理を説いていた。

 ブッダの教えは、バラモン教学に対し徹底的に対峙する急進的なものでも、革新的なものでもなく、基本的な教理をバラモン教学に則り、インドの素朴な民間信仰に基礎を置いて出発した。しかし、ブッダは従来の思想の中には、救いの道がないことを悟り、自らの救いの方法を新たに説いた。

 ブッダは、出家して6年の苦行(タパス)の後、ブッダガヤのピッパラ(アシヴァッタ)樹の下で瞑想し、悟りを開く。

「無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり、識別作用によって名称と形態があり、名称と形態とによって六つの感受機能があり、六つの感受機能によって対象との接触があり、対象との接触によって感受作用があり、感受作用によって妄執があり、妄執によって執著があり、執著によって生存があり、生存によって出生があり、出生によって老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生ずる。このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて生起する」

「無明を止滅するならば、生活作用が止滅する。生活作用が止滅するならば、識別作用が止滅する。識別作用が止滅するならば、名称と形態とが止滅する。名称と形態とが止滅するならば、六つの感受機能が止滅する。六つの感受機能が止滅するならば、対象との接触も止滅する。対象との接触が止滅するならば、感受作用も止滅する。感受作用が止滅するならば、妄執も止滅する。妄執が止滅するならば、執著も止滅する。執著が止滅するならば、生存も止滅する。生存が止滅するならば、出生も止滅する。出生が止滅するならば、老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みも止滅する。このようにしてこの苦しみのわだかまりがすべて止滅する」と。

『ウダーナ』より

 ブッダの開いた悟りとは、この「縁起」と「十二因縁」の理であり、その他の四諦、八正道、中道、の教えはすべてこの法(ダルマ)に起因する。

 すべての執著を断ち切ること―――

 原始仏教の根本的な教えは、非常に単純で、すべてはこの一言に尽きるものだと私自身は解釈している。

自己を知ること―「非我」と「無我」

 このような執著は、自己(アートマン)ならざるものを自己と見做すところから始まる。

 個人の存在は、「五蘊」と呼ばれる五種類の要素から成り立っている。それは、物質的な形、感受作用、表象作用、形成作用、識別作用の五つで、それが自己の存在を作り上げている。
 しかし、ブッダは、これを「自己ならざるもの」つまり、「非我」として捉えたのである。この「非我」という教えは、大乗仏教が成立し、漢訳される中で、「無我」と訳され、「空」の思想として発展していった。
 だが、ブッダ自身は、自己(アートマン)の存在を否定していたわけではなく、「非我」を「自己」と見誤ることを戒めている。
 「無我」に至ることではなく、本来の「自己(アートマン)」を知ることが重要だったのである。

 真の自己の利を知るものは、他の存在にとっての自己の利を知ることになり、それが「慈悲」の根源となるのである。
 そして、この自己を慈しむこと(執著から離れること)が、涅槃へと至る道なのだ。

 執著を断ち切ることで、単に苦しみから解放されるというのではなく、ニルヴァーナ(涅槃)という愉悦に至ると説いているところが興味深い。
 今生を四苦八苦と捉え、輪廻を苦しみと考える徹底的な厭世主義にあって、涅槃という安らぎの境地が存在するという教えは、人々に救いを与えるというよりは、人々を求道者に駆り立てるものだろう。

 原始仏教が非常に脱世俗的、脱社会的な方向へと進んでいくのは、当然の成り行きだった。そして、それが仏教に限らず、本来の宗教の在り方だろう。
 宗教が組織化し、社会に組み込まれていけば、当然そこに権力が生まれる。権力とは、執著の根源のようなものだ。そこに本来の信仰の在り方などない。ましてや執著を断ち切ることを目的とした仏教にあっては尚更だ。

 戒名ビジネス、葬式ビジネスに勤しむ現代日本の仏教とブッダの教えとは、つくづく何ら関りのないものだと感じた次第。